思考、感情、意志の分裂 ~ ある種の狂気、終末論的な | 大分アントロポゾフィー研究会

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自らのイメージ体からの離脱/人間の第四の誕生へと至る過程で、人間の魂において、思考、感情、意志の旧来の結びつきが失われるようになる。

思考のアーリマン性、感情のルシファー性、そして意志の本能的・動物的衝動性(直接性)が、生のまま勢いを得て、この分裂状態がそのまま進行するならば、人は狂気に至る。

程度の多少はあれ、私たちは日々、自分たちの周りにそのような狂気の現実を目の当たりにしているのである。私たちの魂の内部空間において、思考、感情、意志の旧来の結びつきが解かれていくが故に、過剰なアーリマン性、過剰なルシファー性、そして動物的な衝動性が、私たちの身振りと表情、行動の中に目に見える形で現れる。

 

いずれにしても、私たちはこの狂気を克服しなければ、生き延びることはできないのである。

これは、文字通り、生みの苦しみである。

 

意志は、カルマに由来しており、思考や感情に比べると、その根源性において際立っている。

つまり、意志の本性は自我/「わたし」である。

 

自我/「わたし」/意志は、その本当の姿を、「あなた」に出会うことによって、自ら発見する(思い出す)。

「あなた」を見出し(出会い)、第二の自己認識(聖霊降臨)を成就するために(そこへと至る過程において)、芸術が大きな力を持つ。

いずれにしても芸術は、思考と感情の力を駆使して生み出される。芸術家の自我/「わたし」/意志が、彼の思考と感情を律して、作品を生み出す。

彼の意志は、思考のアーリマン性と感情のルシファー性の間で、困難を極める手綱裁きを求められる。それだけ彼の意志は強靭でなければならないということである。

そのような意志の強靭さを、私たちは彼の生み出した作品によって知り、感得する。例えば、私たちは、ベートーヴェンの第七交響曲を聴いて、そこに崇高とも言えるベートーヴェンの自我の態度、身振り、表情を見て取るのである。この上ない勇気、些事をものともしない躍動する誇りのような・・・。

 

 

思考をロゴス(logos)、感情をアニマ(anima)と呼ぶことは適切である。

 

思考は、法則や原理的なものを追求する認識の営みである。ものごとを分節化し、マッピングする。

世界を切り刻み、解剖し、分析し、本質に至ろうとする。「本質とは何か」知らぬまま突き進み、そして決して「本質」にたどり着くことはない。

古今東西のあらゆる知を収集し、世界を鳥瞰しようとする。この闇雲(やみくも)な知の収集作業は、決して終わることはなく、万が一たとえこの作業が終了したとして、彼の前には意味不明な「鳥瞰図めいたもの」が広がっているばかりである。

このような思考人間の特徴を、ゲーテはファウストによってシンボライズした。ファウストはメフィストフェレスに魂を売り、グレートヒェンを誘惑する。

 

 

思考が感情と調和的に結びつき、芸術が生み出されると、すべてが新しくなる。

世界が、それまでとはまったく異なった光の下に現れる。(cf.スフラワルディ)

太陽と月の結婚、ロゴス(logos)とアニマ(anima)の受胎である。

 

思考は感情によって温もりと暖かさを得るわけだが、感情の側からすれば、無軌道になりがちな荒馬のようなその性格が、思考によって中和され、秩序づけられるといういわば相乗効果が生まれるのである。