テオーリア(theōria)/観照に至る | 大分アントロポゾフィー研究会

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人は皆、カインの末裔である。

もっとも広い意味で、人は皆、芸術を通して、テオーリア(theōria)/観照の境地へと至る。

この地上生においては、これがゴールである。

 

真理は、水晶球(すいしょうきゅう)のようなもの。

ものごとは相互につながり合い、関連し合っている。だから、出来事は他の出来事を生起させ、その連鎖は止むことがない。

同じことの繰り返しではなく、常に新しいものが生まれている。

この絶えざる生成のことを、奇跡と呼ぶ。

奇跡を観照する魂の状態のことを、テオーリア(theōria)と呼ぶ。

停滞する何事もなく、すべては流れの中に在る。

 

”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。”(鴨長明『方丈記』)

 

もちろん、単にペシミスティックな無常観は、テオーリア(theōria)とは異なっている。

 

一度分裂しバラバラになってしまった思考、感情、意志が、テオーリアにおいては新たな調和の中で結びつく。

この再結合(reunion)と調和を妨げる要因として働くものが、ルシファーとアーリマンである。

ルシファーは人間の感情において働き、アーリマンは人間の思考を唯物的で融通の利かないものにする。

ルシファーは人間の気持ちを昂らせ(たかぶらせ)、アーリマンは人間の思考をオートマチックにする。

確かに、このようなルシファーとアーリマンの力によって、人間はこの地上生を生きているという面はある。ルシファーとアーリマンなしにこの地上の世界を生きることは困難だ。だが、あまりに地上的な生に拘泥すると、そこから筆舌に尽くしがたい苦しみが生まれてくることも避けがたい。