人はパンだけで生きるものではない(6) | 大分アントロポゾフィー研究会

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何らかの出来事がきっかけになって、「私は無力だ」とかそれに類する文脈イメージに囚われるようになると、人はうつ病になる危険に晒される。

その人の魂において、イメージの負の連鎖が起こるようになる。無力感が募る。「死に至る病」という表現は適切である。

 

文脈イメージの特徴として、人が何らかのきっかけで何らかの文脈イメージに”はまる”と、他の文脈イメージに対する想像力が弱くなり、特に対極にある何らかの文脈イメージを想像することがほとんどできなくなるということがあるので、例えば「私は無力だ」と思い込むと、人はその思い込みからなかなか抜け出せなくなってしまう。

そして、やがてその人はうつ病を発症するのである。

 

うつ病へと至る過程で、焦燥感、苛立ち(いらだち)、「できない」という思いから来る申し訳(もうしわけ)のなさ、罪の意識、負のイメージが堂々巡りのように押し寄せることから生じる不眠、イメージの負の連鎖から逃れようとして為されるほとんど不毛な行動などが起こってくる。

 

表面的な気晴らしの類は、うつ病へと向かうこのプロセスを逆転させるのには、何の効果も期待できない。

 

唯一の解決策は、その人が自分の中に”力”を見出すことである。

 

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力  生命-死  意志  共感-反感  受容  喜び-悲しみ  楽しみ  おもしろい-つまらない  快-不快  希望-絶望  ・・・  

 

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文脈イメージを変容させ、別の文脈イメージにする力を人間は持っている。

 

感覚的イメージは五感と直接的に結びついているので、その強固な結びつきを人間が思考の力によって解き、別のものに変容させることは困難である。

感覚的イメージの変容を、人間は麻薬の力を借りて成してきたという歴史はある。

 

言語的イメージは言語感覚を通して獲得される。人間はほとんど本能的にそのことを遂行するので、一度獲得した言語的イメージを後になって意図的に変容させることは、極めて困難である。

母語を習得した後で、外国語を学ぶことによって、母語に由来する言語的イメージをある程度相対化することは可能である。しかし、そのような場合においても、・・・

 

文脈イメージは、人間の思考と想像力の産物であり、感覚的イメージや言語的イメージに比べて、感覚的・本能的縛りから自由である。

だから、人間は自らの思考と想像力を駆使して、文脈イメージを変容させることができる。

しかし今度は、人間存在の宿命である個体性というものが、文脈イメージの創造と変容の営みに危うい(あやうい)色合いを添えることになる。

 

人間が個体としてこの地上世界を生き始めるや、人間の魂の奥深くに、根源的な”不全感”の杭(くい)が打ち込まれる。

霊的世界から旅立ち、この地上世界へとやってきた人間は、生まれ落ちたその時点から、「心細い感じ」「寄る辺ない感じ」「自らの体と魂の小ささ・弱さ」を感じる。

肉体は生長する。魂はその肉体の中にあって、そのような”不全感”を何とかしようと苦闘する。

その過程において人間が頼りにするものこそ、自らの思考と想像力そしてその思考/想像力によって生み出される文脈イメージに他ならない。

 

人間はより強く、より大きくなろうとする。完全に近づこうとする。神に等しい存在となろうとさえする。そのためには、悪魔とも手を組む。

 

文脈イメージというものは、必ずしも言語化できない。

思考や想像力というものは、言語そのものではないから、その分、柔軟性と力とを持ち得るが、当然のことながら、言語的明確さをいつも持ち得るわけではない。

 

顔の表情や身振りは、文脈イメージの表明である。

音楽表現は、文脈イメージの一種である。

絵画、彫刻、建築、・・・都市計画、種々の組織(会社、学校、行政、軍隊など)・・・これらは文脈イメージの一種である。

生活のあらゆる場面と領域が、文脈イメージによって造形されている。

文学や哲学のように言語表現が用いられる人類の思想的営為は、文脈イメージの一種である。

 

感覚的イメージと言語的イメージを、人間は自らの思考と想像力を駆使して、様々に組み合わせ、文脈イメージを構築する。

そして一つの大きな文脈イメージの中に、複数のより小さな文脈イメージを確認することができる。