2023.8.9 ST (NO係争)軽躁状態における(軽躁状態をとおした)悟り(NO涅槃) | 大分アントロポゾフィー研究会

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凡人ツァラトゥストラのドッペルゲンガーが

凡人ツァラトゥストラと全くおんなじヨーな悟りを

 (どんちゃんパーティーを) 開いたとしたら

果たしてこのわたくし凡人ツァラトゥストラは

そのドッペルゲンガーに激しく嫉妬することになるのか。

と、わたしはわたし  自信  自身を執拗に追求したのである。

 

***

 

それがデカイのはわたしや貴女のせいではない。

あれ(これ)がチーサイのも貴女やわたしのせいではない。断じてナイ。

彼や彼女のせい  性  でも断じてない。

っんんんっ

それが一体いったいがっさい・・・どうしたってんだよ。

てんでーてんでーがってんでーてんだ。ほいのほいのほほいのぷーさんぷーさんぷぷいのプータロー(ふふふふふーたろー)

 

 

このようにネット上に自らの悟りを公開することは

Open(Up)することは

実は

 

サービスではない ボランティアではない お節介ではない 単なる楽しみではない

たぶん禅ではない おそらく神秘的合一ではない 浅はかな悟りとも違う 深ーい悟りとも違う

これは凡人ツァラトゥストラの悟りである だが永劫回帰(ニーチェ)とは違う 本物のツァラトゥストラではない

カーマスートラのレベルには少し近づいているかもしれない でも遠ざかりつつあるのかもしれない ちがうちがう なにがちがう

それがちがう あれがちがう これもちがう おなじではない 「わらってはいけない」 いや笑うべきである

おおいに笑うべきである しかし笑い過ぎてはいけない 大笑いし過ぎてはいけない ほかの人を嘲笑しては絶対にいけない 嘲笑ってはいけない ほほえむのはよい ほほえむのを嘲笑いしていると受け取るのは其の人の勝手である 自分勝手である わたしは自分勝手で(は) 歯🦷 ・・・ みんなはどうなんだ ひとまかせにすべきではない ・・・ 身勝手である(だれが?)

この悟りは悟性的に悟りと一般(パンぱんぱんぱんぱぱぱんぱん あんぱんまーーーん)にかんちがい(勘違い)されているような類のものではない ステージが違っている レベルが違う(間違いない! でも間違っているかもしれない。でも間違ってはいないだろう。しかし・・・でも・・・DEMO・・・デモテープとは違う。しかしデモテープに何らかの関係があるのかもしれない。ないとは言い切れない。だが・・・デモ行進ではない。デモ行進すべきではない。しかしすべきなのかもしれない。根拠がない。本当にないのか?ない ある ない っんんんっ・・・ないのか いやあるのか っんんっんんっ・・・ぅぅ) 映画の悟性魂的解説のようなものでは断じてない いっぱんのゆーちゅーぶUP動画のようなものとはやはりステージが全く異なっている.

わたしもようやっとことで63 (333666 おりょっ) さいにしてキティちゃんの精神のレベルに近づいていると感じていたが、先日孫の家のTVで見た最近のキティちゃんの変貌ぶりに衝撃を受けた。今のキティは『アキラ』に登場するぬいぐるみのくまのモンスターのようになってしまっていたのだ。3Dコンピューターグラフィックスキティのどんくさい非人間的な動きは幼稚園児たちには怖すぎると思った。ああ昭和レトロキティちゃんの田中泯的爽やかな古典主義Klassizismus はどこへ行ってしまったんだ。もはやベートーヴェンを凌駕するかような勢いさえあった(ような気がするのはわたしのような凡人ツァラトゥストラだけなのか)のに、あれはもはやあの大正レトロ大好き  動揺  童謡『赤とんぼ』(三木露風/山田耕作)の「おさとのたよりもたえはてた♪」感性世界が垣間見せてくれているかもしれんようなものになってしまったのか。もはや遠い日の思い出、郷愁のようなものに(裏切られたのか いやキティは一時的にあんなふうになってるだけなのか そうではないのかどうなのかああなのか逝っちゃうのか・・・っぷっす~(゜o゜))・・・そういうわけで孫の家のテレビのYoutube(ようつべぇーだ ダースベーダー)をミニマル・ミュージック演奏UP動画(スティーブ・ライ  フ  🔥ヒの『ドラミング』)に変えてみることにした。隣のソファーで孫(6さい)の面倒の一切合切(いっさいがっさい)をわたしに押し付けて眠ったふりをしていた(いや疲れて本当に眠っていたのかもしれない。いややはり眠っていなかったのか。いたのか いなかったのか いやいたのかなんだかかんだかそしてどうだかどうなんだか・・・)妻はそのまま狸寝入りを続けていて、わたしは孫と一緒に『ドラミング』を見ていたんだか聴いていたんだか。なんだっかかんだっかかかか。かかかとととすかかすかったすかかすかったととととと♪♪ ♪ ♪♪ ♪~ さてその6さいの  むすめ???おっと危ないくれんぺらー  孫は~~(これからどんな小学生や中学生や高校生や(大学生や)に成長していくのかな)?もちろんみなさんのご想像におまかせ致します。一切合切(イッサイガッサイ最上級/比較級。たんじゅんなひかくなんてやめてね。むっずかしいひかくもやめておいてね)。

 

この悟りは否定神学に似ているかもしれない。今ウィキペディアの「否定神学」のページを閲覧してぱらぱらっと読んでみてその思いを強くした。そしてもしかするとわたしは龍樹(ナーガールジュナ)の生まれ変わりかもしれないと気づいたと思った~たぶん思い違いだろう~しかし当たっているかもしれない~いややっぱり違うだろう(その根拠は何だ。お前に根拠が示せるのか。根拠は・・・無い(゜゜))→ 虚無主義・ニヒリズム → 脱構築(デリダ)で ~ ♪ セザール・フランク 『交響曲 二  単調  短調』(オットー・クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団) ~  déconstruction(デコンストゥルクスィオン)でこでこでこんでこでこでこでこん・・・でこのニヒリズムを乗り越えていこう!「できるか。できるのか。お前に本当にできるのか。」「できるかもしれない。できないかもしれない。それはわたし次第で(は)・・・ないようであるようだが、あるようでないようでもある っんぐぐぐっんぐぐぐぐぐ ぐぐぐ ぐぐぐ そこでぐいっと引っ張りなさい。そうぐいっとなんか言わないでください。いいじゃないかオレはきみのことが好きなんだ。ぼくは・・・あんたが好きじゃないんでっすうすうすうはあはあはあ~っうっうぐぐぐ ♪ 石川ひとみ『まちぶせ』♡♡♡~♡ ああああいつまでも待ってくれ ♪ YMO 『体操』「ケーレンノウンドー123 12 12 123 123・・・ビクビクビク ピクピクっ ああ ああ ああ あっっあっっあひるかっ🦆 」 ちゅうろんちゅうろんうちゅうろん チューロンチューロンウチューロン わたしの記憶の中に(魂の内に)読んでもいない『中論』が出現した。顕現した。そしてあーっという間に消えちゃった。ぷしゅーーっ(^^)/ そしてわたしは虚無主義(うつ/鬱)は結局のところ、ケーソーというものによってしかつまりよろこび(歓喜)によってしか打ち消すことができないといつのまにやら悟ったという事の次第なのである。

そうなんだよ。よろこんじゃえよ。ほらあよろこんじゃえよ。ほらほらほらあ。

つまり脱構築déconstructionというおしごとは、じつにじつにたのしくておもしろい作業なんだよお。それを楽しむか楽しまないかはきみ次第だ。だったら自分でかってに楽しめばいいじゃないか。デリダもそう言ってる(はず)。じつはデリダとシュタイナーは心の友(soulmatesそうるめいつ)だってはなしだよ(嘘ではないカモ)。ふたりは精神の世界では石川ひとみのファンクラブに入っているらしい(そうらしいカモ あるあるかもかもそうかもかも)。

 

***

 

 ぽんがく  ♪ ベルリオーズ 『幻想交響曲』 (オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団)

cf. 「イデー・フィクス」(idée fixe、固定観念、固定楽想などと訳す場合もある)、グレゴリオ聖歌『怒りの日』(Dies Irae)