躁状態ではダジャレが多くなる。
なぜそのような状態になるかというとダジャレというものは基本的におもしろいものだからだ。
躁状態になるとなぜかあたらしいダジャレをつぎからつぎに見つけることができる。しかもほとんど瞬間的にかつ持続的に。
躁状態とはそのような魂の状態なのである。
もちろんあたらしいダジャレをいつまでもたれながすようにとめどもなくきかされる他の人は、
はじめのうちはおもしろがってきいてくれるが、だんだん耐えられなくなってきてイライラしはじめる。たまらなく苦痛なのだ。吐きそうなくらい。
そのような躁状態に頻繁におそわれるような人がじぶんのみじかにいたとしたらどうなんだろう。
たとえばその人が自分の恋人だったり夫だったり、また職場の上司だったり同僚だったり、はたまた自分の子どもが通う学校の担任だったり、ひるがえって妻だったり愛人だったり etc.etc.etc.…おとうさんだったりおかあさんだったりおじいさんだったりおばあさんだったり ~~~ 姉だったり兄だったり、いも・・・おと・・・
そんな躁状態を呈する人が隣に住んでいたら(地域・団地の自治会の人つまりわたしと同じ立場の人)・・・ ・・・ ・・・
たまにテレビでクラシックの有名な演奏家同士が演奏が終わった後に
大観衆の見まもる中きつくハグしキスしあっている様子が映し出されることがある。
わたしは以前、ロシア人チェリストのロストロポーヴィチと指揮者の小澤征爾の
その場面を見た記憶がある。
今にして思えば、かれらは躁状態に陥っていや舞い昇っていたにちがいない。
直前の演奏がふたりそろって完璧で神がかってさえいたにちがいないのだ。まさしくカミだったのだ。ほとけではなく。
演奏が終わるか終わらないうちにひびきわたるような大拍手とbravissimo,bravissimo!!! が会場にとどろきわたる・・・(すこしおおげさにいってる)。
チェリストと指揮者の興奮はもはやほとんどマックス状態だ。このふたりとオーケストラとそこにいあわせた聴衆のみんながものすごい興奮の渦巻きのなかでまさに門司通り(文字通り)☆ひとつになっているのである。たとえこの一瞬のあいだだけのゆめのコミュニオンだとしてもそれがどうしたというのだ。なにかがいまここで実現していることにまちがいはないのである。なにものかの出現といってもいい。☆顕現☆☆☆といってもいい。なにかいつもとようすのちがうものがそこにはまちがいなくあったのだ。
魔術的芸術☆☆☆~☆
そこにいあわせた人たちの魂がルシファーによって煽られまくっている(た)のだ。
・・・いずれにしてもそうはさせない躁状態というものは饒舌(じょうぜつ)である。
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躁状態はルシファーの介入によって喚起される。
だから躁を人に迷惑をかけない程度に抑制しようと思うならば、
まずはルシファーに対する注意を怠らないことが必要である。
他者の秘儀=悪の秘儀のほとんどすべての局面において
この文脈(ロストロポービッチ(ヴィチっ)と小澤征爾(青磁セイジ)とそのオーケストラのメンバーとそこに聴きに(見に)来ていたひとたちの魂において起こったとんでもない出来事がどのようにして起こったのかということ)に最大限意識的である必要がある。見極めることが非常にむずかしいプロセスであることは事実だが、探求すること自体は不可能というわけではない。
いずれにしてもこの課題(アレ(?)を見きわめるために探求しようと決意すること)は
現代という意識魂の時代において
われわれ全員の人生の課題となったのである。人類のカルマ的な過大題課題なのである。
このことは人類にとって不可避であった。人類の霊的な魂(ほとんど精神と言っているのと同じ)のカルマ的宇宙的課題なのである。
ことここにいたってわたしは
パ古(そ)今(パーソナルコンピュータ(ー))という最高レベルのアーリマン的機械(二分法の悪魔の権化)が
機械の世界の世界におけるダジャレのおそらくNo1歴代チャンピオンであるという
歴史的事実に気づいた(というわけだ)。
もちろん霊的=宇宙的に見た時には
この機械が圧倒的にポンコツであることは
人類の同志動詞導師たちの眼にはすでに明らかなのである。(フフフ)オミトオシ☆(お見通し)だあ。
***
♪ Mahler: Symphony No.7 / Boston Symphony Orchestra SEIJI OZAWA