夫が妻に叱られる場面は微笑ましく絵になるけれども、夫が妻を叱りつける場面は見ていられないように感じるのはなぜだろう。わたしが男だからだろうか。そうも言えないのではないだろうか。
テレビの動物番組を見ていると、よくオスがメスに求愛する場面が出てくる。メスがオスに求愛するのはあまり見かけない。オスは一生懸命メスに求愛する。だがメスから無視され逃げられてしまう。それでもオスはめげずに別のメスがいないかとあちこち捜し回り、やっと見つけた別のメスからまたもや拒絶され逃げられてしまう。オスは同じことを何度も何度も繰り返すが、結局プロポーズは成功せず、疲れ果てて死んでしまうのである。
動物たちが見せてくれるこのような悲喜劇と全く同じ構図を持ったシナリオを、わたしは人間の夫が人間の妻に叱られてしまうというエピソードの中に感じ取っているのかもしれない。
そして実は、人間の夫婦は、いくらもうセックスは済ませているとか、しすぎるぐらいなんべんもして子どもも孫もいっぱいいるだとか言いながら、実は実はまだまだ、お互い動物並みのパートナーにさえなりきれていないのでは~本当は夫婦ではないのでは~いわゆる家庭内別居の状態に突入しつつあるのでは~離婚調停がすでに進行中なのでは~~という事態が・・・こんなこと書きながら、自分がいやになってきたので、書くのをやめます。
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もしわたしのとなりにいつのまにかイエス・キリストが立っていたら、
わたしは、
すなおにかれの弟子になってつき従うか、
完全にかれを無視しようとして心理的に追いつめられ、ついには絶望してしまうか、
こころを決してかれを暴力的に抹殺(暗殺)しようとするか、しかないにちがいない。
でもさらによく考えると、
もうひとつの領域がのこされていることが見えてきた。
イエス・キリストとたたかうのである。
たぶんかなわないだろうとは思いつつも、ためしにたたかいをいどむのである。
そのたたかいは一回かぎりのものでない方がよい。
できるだけ何回もたたかうのである。たたかってたたかってたたかいつづけるわけだ。
イエス・キリストもそのぶん真剣になってくれるにちがいない。
しかしかれとほんとうのともだちになる夢を見ている自分を夢見ることが、・・・
・・・~~~
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♪~ おおたか静流「悲しくてやりきれない」(『REPEAT PERFORMANCE』)
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運命的な出会いで結ばれた夫婦なら特に、夫婦間の戦いは熾烈なものになる。
もちろんお見合いカップルや出会い系で運命的に出会ってしまった男女でも、
原理的にはまったく同じことが起こる。言ってみればそれはまさしく運命なのだ。
この戦いのゴールは今のところ見えていない。
男女間・夫婦間のこのような戦いは、
もっともお手軽でしかも極めて効果的な、
”他者の秘儀=悪の秘儀”なのである。
だから世界中の老若男女はそのような宿命の中に生きているということを自覚しなければならない。