プランナーの日常 Ameba PLANNER NO NICHIJOU Ameba -4ページ目

プランナーの日常 Ameba PLANNER NO NICHIJOU Ameba

好きな曲をダラダラ。ジャンル分け (;´・д・`汗) 。無効発見、コメント <(_ _)> 。日々のつれつれは楽天。

「幸福だったんだ!?」とちょっと笑ってしまったが、結局、むなしいものだったというところには共感。彼は『野のものは野に置け』という思想を、カゴの鳥を野に帰す運動で広めることにする。

「あの人に会いたい」(『NHKあの人に会いたい』刊行委員会 編・新潮文庫)
中西悟道
“野鳥”という言葉をつくった日本野鳥の会の創立者・歌人、詩人

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「世界はね、産業主義か共産主義か、このふたつに二分したんですね、ところが私はこのどちらにも納得がいかなかった。そしてね、今の機械文明、産業文明の思想はどうせ、みな限りない欲望の世界なんです。欲というのはかならず後ろに欲求不満がついていてどんどんエスカレートする、どうもどちらにも賛成ができない。さりとてアナーキズムにもあんまりぴたっとはしない。テロリズムがついていますからね、怖い。
 それよりひとつ裸になろうと思いまして、それで武蔵野に入りまして木食生活を始めたのです。最初はそば粉を水で練って食べるだけ、いくらもかかりません、そば粉ですから。それからね、当時は野川がきれいでしたから、その中に寝転んでそれが私の風呂代わりなんですね。行ってみると小川にメダカがいるからそれを飲みました、たんぱく質に。それからね、今度はカエルを食い始めた。カエルは皮剝いて中身をなくしてもそこに置くとそのままで動き出す、それで嫌になっちゃってね、それでもう生き物は食うまいと。それで草を食い始めた」

-それでつかんだものというのは?

「結局それはむなしいものだった。だって人が言うことを聞いてくれない道ですから。自分だけが幸福で社会に参加していない。社会に参加せざるもの、それはエゴイズムだと思った。これじゃないけないと。それじゃ、インドからもらった思想、それを引っさげて、社会に参加する道はないかと反省した。それで木食生活をやめてしまった」
スーザン・ソンタグ『この時代に想う テロへの眼差し』(NTT出版)の序文を読んで、作家のあるべきスタンスが良く分かるような気がした。一方で、作家と活動家を繋ぐにはどうすれば良いのかということも依然として分からない。

反原発運動の中で、小出さんが「自分は呼ばれればどこへでも行って話をしますが、リーダーにはなれない」と明言していたのも、同じような認識だったのではないかと想う。

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序

 本書に本書に収録された著述はすべて、ある意味で、「時に応じて」書いたものであり、私の仕事のなかでも典型的なものとは言えない。これまで書いてきたもののほとんどは、これらほど赤裸々な「意志の伝達」にはなっていない。これらのテクストは、言語道断の暴力やそれに付随する無思慮ないしは悪意に対する、また文学賞を受けた際の講演依頼への、そして敬愛する同僚作家との対話への誘いへの、私なりの応答として書かれたものだ。したがって、これらは必然的に、切迫した公の事態に対する私の取り組み方を映し出している。良心の表現である-つまり、そこに現れている観点は、なによりも、道義的な範疇のものである。
 多くの作品を著した名の知れた作家には、この種の著述を依頼される(あるいは、されていると感じる)ことがしばしばある。作家がそれに応じることは、馴染みのある役割を、そしてたいていは(依頼者の期待を受け入れて)有益な役割を果たすことになる。そういう著述の価値も利点も私は認めるが、それでもなお、そうした役割にどこか居心地の悪さを感じている。これらの私自身が書いたものの言わんとするところに立脚しながらも、モラリストになることに内在する(作家にとっての)堕落の問題が気にかかる。
 文学は倫理的な責務-言語への、真実への-をともなう道義的な仕事だ、と私は見ている。だが、道義にこだわりすぎないほうが、道義的な責務をよりよく果たせるのではないかと想う。ところが、この時代、作家たちは道義を説くことをあまりにも安易にとらえている。メディアの増殖によって、作家の発言が招じられる公の機会が、これまでにないほど多くなったことが原因かもしれない。書くことに加えて、発言する機会が。
 私も、なにごとかを語る声を愛する者だが、なにごとかを書く声のほうが好きだ。語る声は、行動を訴えかける方向へと、引きずられがちだ。作家-もちろんこの言葉は、たんに本を出す人という意味ではなく、文学という事業に取り組んでいる人を指して使っている-は活動家ではない。活動家であってはならない。解決を追求すること、そのため必然的にものごとを単純化することは、活動家の仕事だ。つねに複合的で曖昧な現実をまっとうに扱うのが作家、それもすぐれた作家の仕事である。常套的な言辞や単純化と闘うのが作家の仕事だ。
 本書に収録された著述は、私としては混交された声としか言いようのない声でつづられている-書く声と語る声の双方がそこにはある。この混声、あえて言えば、この混濁した声は、これらの著述を触発したさまざまな事態ゆえに、いやおうなく発せられたものだ。これらの「混濁した」あるいは「時宜に応じた」著述が、それでも、二つの異なる命題を遵守するという、私の作家としての良心にかなうものになっていることを願う。二つの命題とは、私たちに共通している社会的な生活と関心事の重大なテーマのいくつかに、真摯に、思慮深く、関与すること。そして、そのような関与への誘いに対する、適切な、それも作家としてのわだかまりを伝えることだ。その意味で、真実を語るという作家の第一の責務にもとらない自分であったことを念じている。だが、真実はつねに複雑であり、矛盾に満ちている。

パリにて、2002年1月