二元性って改めてめんどくせーなーと思った。
とはいえ「二元性なんて滅びればいいのに」とまでは思わない。必要なものだよなぁとは思うのだ。
なぜなら、倫理観を育てるのに必要だろうから。
かの有名な、なまはげ公はおっしゃいました。
悪い子はいねーかーと。
とある親御さんはこう言いました。
サンタさんは今年一年いい子にしていた子のところに来るんだよと。
良・悪
正・誤
優・劣
成功・失敗
こういった二元性は、道理や秩序、倫理観を知り、育てていくために有効なのだろう。
それこそ自転車が乗れるようになるまでの補助輪のように。
とはいえ、倫理観が育ちきったら話は変わってくる。この二元性が心の痛みになってくるから。
正しさの枠が心を締めつけ、
良い自分でいようと心の自由さが奪われ、
間違い=価値が下がる、無価値観の錯覚に苦しむ。
だから二元性の役割が終わったら、もう二元性を手放していいじゃん、心の自由を取り戻していいじゃん、と思うのです。それこそ、自転車が乗れるようになったから補助輪を外すように。
なので、私が最近心がけていた心のあり方が大事になってくる。
・白い思いも黒い思いもOK
・ありのままの自分でOK
・何もしなくてもサイコーの自分
・どうにもならないことをどうにかしようとしない
こういった心のあり方は、全て「二元性を手放す」ということに繋がっているから。
けれどこれってホント一歩ずつなのですよね。
先週、「発露したい」「抑制したい」のセットに気付いた。これで心おだやかになる、などと思っていたら、まぁ心が揺さぶられるのなんの(笑)
ヒーコラ言いながら自分の心と向き合った所、隠れるように「間違い=価値が下がる、無価値観」が潜んでいたことに気付きましたとさ。それが冒頭の二元性って改めてめんどくせーなー、なのです。いつまで続くのよ、この芋づる式は。
でもまぁ、こういう思いもまだ発散しきれていない私の思いなのでしょうね。まだ発散できていなくてもそれはそれでOK。今の自分がそうなだけ。
一歩ずつ、日々できる範囲で自分の心の声に耳を傾ける。そうすれば、だんだんと二元性という外の評価軸に苦しむ自分から、自分の内側から自然と湧く声に気付ける自分になっていくのだろうから。そう、無理せず一歩ずつ、ね。
