知ってると出来るは別問題なのだなぁと改めて思った。
たとえば学校でさ、
数学の公式を知っているのと、実際の問題で使いこなせるのは別だよね。
体育の競技でルールを知っているのと、良い評価を貰えるくらい動けるか、それもまた別。
こんな今日の気づきのきっかけ。
それは「発露したい」「抑制したい」のセットの話。
前回の記事、前々回の記事に引き続き、またこれかい! って感じだけど・・・。
今日また、心が大きく揺れる出来事があって・・・
出先の待ち時間で、隣にかなり大きな声でおしゃべりしている方々が来たのですよ。その上、おしゃべりしている内容が、愚痴と文句のオンパレードで・・・
これが私にはかなり苦手な環境なのです。私はガマン癖があって思いを吐き出すのが苦手なものだから、ああいう“発散の場”の近くにいるとメンタルが一気に沈んでしまうのです。「発露したい」と「抑制したい」がぶつかるから、心がすごく消耗してしまう。それに大きな声も意識が外に向いてメンタル急降下するし。
まぁ愚痴と文句自体はそういう気分の時もあるよねーとは思うのですけどね。まぁ日常を過ごしていれば嫌なことはあるだろうし。愚痴を言うことですっきりするのも分かるし。
・・・そんなこんなで、出来る範囲内でするりとその場を離れまして。落ち着いてから、心の掘り下げをしていたのです。
掘り下げをした結果出てきた、こんな反応が起きた原因の思い。それが「傷ついた」「がまんしないと」「気に入らない」の3つ。
だけどこの3つ、原因をたどるとひとつだった。
どれも別々の反応に見えるけれど、根っこはひとつの記憶につながっていた。
自分がうるさくして怒られた → 自分が悪いと思った → 良い自分でいようとした。
・怒られて傷ついた
・良い自分でいようとしてがまんした
・本当は自由にしていたかったのに抑えたエネルギーが溜まり、心がいっぱいになると外を責める
→だからうるさくしてる場に耐えられない
こういう流れだったのだ。
でもここまで掘ってふと思った。
・・・これ、10年以上前に教わったことばかりだぞ?
心のコップ(心に抑えたエネルギーが溜まり、いっぱいになると外を責める)の話、
発露・抑制のセットの話、
心の掘り下げの話。
ぜんぶ、ブロック解除ワークやメンタル講座で教わった内容だ。
心の掘り下げより現実への向き合いが必要と思ってやめたはずなのに、日々一歩ずつらせん階段を登っていたら、また同じところに辿り着いてしまった。
つまり私は、10年以上前に教わったことが、知ってるけどできていなかった。理解はしていたけど、実践できていなかった。10年以上前の学びが、今ようやく腑に落ちたのだ。
だから冒頭の「知ってると出来るは別問題」はそこに繋がる。
10年以上・・・正確には14年か。
14年かけて戻ってきた巨大ならせん階段だ。
でもまぁ、そういうものなのだろう。
それが私の「ちょうどいい」なのだろう。
合気道の先生からも言われたことがある。
「あなたは学びのペースはとてもゆっくりです。だけどそれでいいんです。その分理解が深い。その理解の深さが、あなたのすばらしさなんですから。あなたが教える側に立った時、それはきっと役に立ちますから」と。
世間一般の人はこんなふうに自分の心と向き合わなくても生きられるのかもしれない。
だけど、私にとっては「普通に生きるため」に必要なことだった。自分の心と向き合うことが。
私はおくびょうものの怖がりだから。
だから
周りが気に入らなくて、
自分が許せなくて、
失うことが怖くて、
身動きが取れなくなった。
だからもがいた。もがき続けた。
それから14年。14年かけて同じ場所に戻ってきた。
だけどようやく、このらせん階段の先が見られる・・・そんな気がする。
