昭和45年頃の話ですから、記憶も曖昧ですし
ある程度アバウトなところはご容赦ください。
ご指摘あれば出来るだけ受け止めます。
当時住んでいた「第三福寿荘」ですが、一番右端の部屋
だったと思います。幼稚園の頃に家の左横の路地で
我慢出来ずに「野●ソ」をした記憶がありますので
間違いないでしょう。母親がパートへ行っており
家の鍵が無くて入れずに・・・・
そう言えばこの頃の「トイレ」は「和式」しかなかった
と記憶しております。で、タンクは比較的高い位置に存在しており
(父親の目線ぐらいの高さにあったような)
水漏れが起こった際にびしょ濡れという話もチラホラ
聞き及んだ記憶があります。「紐」を引っ張ると
水が流れるのですが、強く引っ張り過ぎてタンクが
落ちてきた・・・みたいな感じだったのでしょうか?汗
現在の鹿児島でも公衆トイレの比率は
大用ですが「和式2:様式2」という感じです。
一番驚いた点ではあります。都心部のように
「下水or汚水」の整備が遅れていることが原因だと推測します。
古い家はほぼ「和式」です。都心部のビルの中に「和式トイレ」が
あることは想像が出来ませんが、鹿児島では結構存在します。
無いと用が足せないのです。
次回は母親と行った買い物の話の予定です。