<三階部分が潰れたビル>
(2024年度-No.6)
ブログ作成日 :2024.1.17(水)
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<文中の写真は すべて私が 現地で撮影したものです>
1995年1月17日午前5時46分
激しい揺れで目を覚ましました
子どもたちの上に 覆い被さりました
<息子の下宿>
しばらくして テレビを見ていると 燃え広がる神戸の町が 写ってきました
えっ 息子は大丈夫か! すぐに電話をしましたが
一瞬とったようで すぐに切れてしまいました
まさか・・・
<燃え尽きた東灘の街と 燃えた車に貼り付けられた 安否連絡の板>
神戸大学に通う息子は 激震地・灘区の「JR六甲道駅」近くにある
古い下宿屋の3階で 学業に励んでいました
テレビでは 灘区から東灘区にかけて 大規模な火災が発生していると伝えます
しかし 全く連絡が付きません
<あちこちでこんな姿が見られました>
交通も寸断され 勿論行くこともできません
<活断層の動きで 道に大きな亀裂が発生>
正直 諦めかけたその時 履く靴もなく裸足で
息子がバイクに乗って 帰ってきたのです 無事でした
<止まったままの阪神電車>
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その週末 二人でバイクに乗って 神戸の街に行きました
残っている荷物を持って帰るためでした(電車や車では行けない)
どうしてもその向こうに行かなければならなかったので
落ちた阪神電車の 橋桁をくぐっていきますが 恐ろしかったです
お世話になったバイト先に お見舞いと挨拶に行きました
「灘の浜」辺りは 液状化が激しく 工場は無残な姿
生田神社周辺も 想像を絶する様相でした
三宮センター街も アーケードが落下し危険な状態
煉瓦造りの魅力的な建物-サッポロビヤホールは
隣のビルにもたれかかり なんとか崩壊から免れていました
被災から5日目 食糧確保が難しい中でも
道端では パンや食料品とともに 酒・ビールも売られていました
どさくさに紛れて 高値で売るかと思ってみたら 平常値でなにかほっとしたものです
*能登半島地震で 高いブルーシートを売りつけたり
詐欺行為をする人達に 強い怒りを感じます
ボランティアの人達も すでにたくさん応援に来ていました
さらに後日 街を訪れたときは 幹線道路R42も
少しずつ復旧し インフラも整いはじめました
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今日 窓辺のシクラメンを ふと見ると
花房をいっぱい付けて 咲いていました
昨年 寄せ植えの中で弱り切っていたものを取り出し
小さな鉢に植えてやったら こんなに元気になりました
阪神大震災のこの日に この復活した姿を改めて見て
草花の生命力に 大きな感動をもらいました
しかし一方 震災で母親(母子家庭だった)を亡くし 兄だけが父親に引き取られ
自分は施設に入れられたという男性が 涙ながらに
「でもそこで すばらしい出会いがあったのも事実」
と話している姿に わたしも思わず涙した日でもありました
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能登半島地震発生から すでに17日が経つというのに
未だに支援の手が行き届かないところがあったり
災害の全容すら確認できていないと言います
私には 今なにもできませんが 少しでも力になれることがあればと思っています