(後)本土防衛作戦

 戦争はついに最終局面に

 

硫黄島 戦 (昭和20年2月~19日~3月25日)

サイパンを破られ、フイリピンへアメリカ軍に上陸された日本軍はついに本土防衛のため、文字どうり我が日本の国土である小笠原諸島の主要基地・硫黄島防衛作戦に入った。前述のペリリュー戦と同様に、これまで幾多の戦場で日本軍が遂行してきた敵上陸時に全力を挙げて撃退殲滅するべく水際作戦を断念して、栗林忠道司令官以下全軍玉砕を期した我が軍は、ここでも一転軍機能そのものを地下に潜らせ、アメリカ軍上陸攻撃を待っていたのであるこの時、栗林中将はこの戦闘に賭ける徹底抗戦完遂の為、「敢闘の誓六か条」を将兵に布告した。

  1. 我らは全力を振るって本島を守り抜かん

  1. 我ら爆薬を抱きて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん

  1. 我らは挺身敵中に斬り込み敵を皆殺しにせん

  1. 我ら一発必中の射撃によって敵を打ち斃さん

  1. 我らは各自敵10人斃さざれば死すとも死せず

  1. 我ら最後の一人となるもゲリラに依って敵を悩まさん

 

文字通りこの六訓のごとくの戦法で、狙撃.肉迫、斬り込みなどに限定して徹底的に訓練した。「生きて勝てなくても死んで勝つ」-2万の将兵はこの中将の決意を我が覚悟と定め、「栗林洞窟」に潜んで敵来襲を待った攻撃前作戦計画では5日で落とすとしていた米軍も、この硫黄島の一兵も地上にいなくなった日本軍の防備体制を見て最大の覚悟を持って進行してきた。他の戦場(サイパン・フイリピンなど)と同じように空からも海からもほとんど支援が望めない、それは決戦前にすでに全将兵の玉砕が運命づけられていた戦いでもあったのだ。米軍はこの日本軍のカンゲイに、上陸を開始する前におよそ70日を超す砲撃や空爆を繰り返した。硫黄島の地上は草木一本も残らない姿に変わり果ててしまっていた。ここに“東京に行かせるな!”、“天皇陛下を守れ!”、“靖国で会おう!”と究極の持久戦を展開した純忠の日本兵は、日本本土攻撃のため何としても硫黄島を我が物にしたい米軍との世界戦史に遺るすさまじい激戦を繰り広げたのである

 

 

 

日本将兵の闘志は圧倒的な劣勢の中にもアメリカ軍をしてその上陸後さらにおよそ一か月もこの地に留めさせ、我が軍と同程度の2万を超える死傷者を出させるに至った。摺鉢山における日本軍日の丸と米軍星条旗の壮絶なる争奪戦などは、私たち現代人に国旗日の丸の愛おしさを教えてくれる。「士は士を知る者の為に死す」という。ここで死ぬことを知りながら、どんなことをしても勝てないことを、生きて帰れないことを知りながら硫黄島の将兵たちは、名将栗林忠道中将の号令以下ほぼ全軍の玉砕となって国に捧げて()()かれたのだ!

 

栗林忠道将軍の辞世

 

  国のため重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

 

(令和2年5月26日)

 

 

日本軍の死闘が続きます。日本一国を絶滅させようとするがごとき連合軍の攻勢であった。将兵も銃後の人々も歯を食いしばって闘った!

 

リンドバーグ証言

戦後アメリカは言ったしょうへ。「日本軍の米兵捕虜の処遇はあまりに非人間的であった」と。ではそのアメリカ兵の我が日本兵へのそれはどうであったろうか。飛行機で初めて大西洋横断を成功させたアメリカ、いや世界のヒーローであったチャールズ・リンドバーグは自著「戦争日記」で、「我らアメリカ兵は降伏しようとする日本兵をあまりに無慈悲に殺害した。まさに動物以下にしか扱っていなかった。米軍兵士の行為は、文明などとはとても言えず、それは日本兵を批判するほどに文明に価するとはとても言えないだろう。我々のこの戦争時の行為は日本兵よりもよかったとは思えないのである」と述べている(ジョン・トーランド「大日本帝国衰亡記」)。日本軍の捕虜虐待とは、日本軍将兵そのものに食糧や捕虜収容施設などの貧弱からどうすることもできなかったのに対し、全員ではなかろうが米軍将兵の日本兵捕虜虐待とはまさしく人種差別を含む敵対感情によるものであったといえよう。

 

 

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戦後の軍事裁判で、無実の多くの日本軍将兵がフイリピンに収容されていた。その人々の望郷の歌がある。作詞作曲とも収容されていた軍人であった。

 

ああモンテンルパの夜は更けて
作詞:代田銀太郎陸軍大尉
作曲:伊藤正康陸軍大尉
   
  (一)
  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る

 (二)
  燕はまたも 来たけれど
  恋しわが子は いつ帰る
  母のこころは ひとすじに
  南の空へ 飛んで行く
  さだめは悲し 呼子鳥

 (三)
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

 

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特攻

このイリッピン戦のレイテ沖海戦で私たち日本人が特に記憶すべきものはあの特攻である。パイロットも武器弾薬も致命的に不足している我が友軍を救おうと、また故国を敗戦の後にくる講和条件を少しでも条件の良いものにするべく、神風特別攻撃隊(特攻)が敢行されていった。明日の祖国のため、その一度きりの命を盾に敵艦突撃という「決死」から「必死」となっていったすさまじい作戦を展開した若者たちがいたのだ敵戦艦などへの命中という成功率は低かったというが、その崇高の英姿は百戦錬磨のアメリカ兵をして恐怖のどん底に陥れたのである。未だ訓練も十分でない学徒兵、少年兵まで4000名(一説には6000名とされる)を超す永遠の若き我らの同胞が故国日本のため、愛おしい家族・故郷の為、天皇陛下のおられる国体を死守せんと、日本の伝統を守るべく、“雲流るる果て”の空に散っていったのである。命を捧げられたのだ!合掌!

 

西田高光   南西諸島にて特攻  海軍中尉

   5月11日の朝は来た 今より5時間後は必中する 全ての人よさらば 後を頼む

   お父さん、お母さん 往ってまいります  「一生最後の書」

 

   大空に雲は行き 雲は流れり

   星は永遠に輝き 久遠にきらめく  空  空

 

 西田中尉が語っている。「われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっています。そう、民族の誇りに・・・」

 日本は負けている。特攻隊員たちはわかっていた。なればいかに自分たちの命を故国の興亡の戦いに「役立てたる」かを願ったのである。特攻隊員は死んだ。しかしその死は“生”以上に生きている!故国日本に、現代の祖国に・・・

 

この特攻はさらに我が国領土最南端で、大東亜戦争最大の激戦地の一つであった沖縄戦線でも全国から馳せ参じた若者たちによって敢行されていった。

 

 

 

 

この特攻をビルマ元首相バー・モーはその自著「ビルマの夜明け」で、「・・・全世界を驚かせたるもの、我々の東アジア革命の基本的精神と意義を示している、あるもの、すなわち神風の精神である。それは新しい東アジアの真の基礎となりつつあり、いかなる敵も打ち破ることができない甲冑で武装された自己犠牲の精神、生か死かの精神、勝利のために死をもいとわない精神である・・・」としている。数百年続いた白人キリスト教徒による、有色人を異端として迫害弾圧してきたその歴史の流れを止めるにはここまでも闘う人々へ犠牲を求めたとも言えようか。レイテ海戦でこの特攻攻撃を始めたそのフイリピン戦であったが、戦後ともすれば日米激闘の場となったことから日本軍に批判的ともいわれることもあるそのフイリピン人の中で、画家ダニエル・H・デソンは、「大胆不敵、効果的、実践的で、米軍の戦意を挫く戦略であった。それは精神的な偉大さ、一途な愛国心、想像を超えた勇気、最高の英雄的行為という点で前代未聞のことであった」と感嘆している。

 

*空からの特攻と共に私たちが銘記すべきに、人間魚雷と呼ばれた壮絶なる回天特攻もある。その他多くの敗勢濃い戦場で、我が日本軍将兵たちは行けば間違いなく殺されるであろう敵陣に向かって「特攻」していった!故国日本の永遠を胸に・・・

 

 

*ペリリュー島の玉砕(昭和19年9月~11月)

太平洋の覇権を巡って、あの戦場、この島々で日米は凌ぎ(しの)凌ぎ(しの)を削った。その中でも硫黄島の闘いと並び称されたのがこのパラオ・ペリリュー島における我が日本軍の悲しいまでの敢闘であった。

昭和19年9月、面積も硫黄島とほぼ同じ20平方キロの我が国の統治領であった。ここに中川州男(くにお)ここに中川州男(くにお)大佐の指揮の下、日本軍守備隊約1万がいた。敵する米軍はフイリピン奪還への足掛かりとすべくその数倍にも勝る大軍と強大な物量で攻めてきた。アメリカ軍は2~3日で落とすと豪語して襲い掛かってきた。しかし我が軍にも必死の秘密作戦があった。我ら先人・将兵たちは何と70日を越すまでに持ちこたえたのである。まず日本軍はこの戦闘に入る前に、一緒に戦いたいという島民を説得して他の島に避難させている。そして日本軍は通例の水際作戦を放擲した。海岸部では強固なトーチカ陣地を構築で迎え撃った。また内陸部では後の硫黄島に先駆けての洞窟陣地からの反撃に出た。圧倒的な米軍兵力に信じられないような打撃を与えた。まさしく日米戦史上にのこる死闘であった。しかし戦力の差は大和のサムライにもいかんともできなかった。やがて追い詰められて最後に至った日本兵50名余は、まず中川大佐が祖国に向け、「サクラ、サクラ」の電報を打ち、自決した。残された部下たちは強大なアメリカ軍に向かって突撃、玉砕して果てていった。前記のサイパン戦にも述べたが、我が日本軍将兵は、他の国々の将兵なら、もう降伏しかない戦場でも、究極の武士道精神で多くの将兵は斬り込み、万歳突撃などでその命を捧げられたのである。事の是非はそう簡単には私たち後世に生きる現代人には問えまい。ただ先人・父祖たちの故国への「最後のご奉公」に感謝するのみである。その一方でこれら「日本の英雄」の崇高なる散華を、ムダ死になどと批判して止まない左翼・リベラル知識人や教育者、政治家などのその精神の卑劣さは、ともに故国を語るべき同胞とは言えまい。同じ日本人として相容れるものではなかろう。

 

*パラオでは、ペリリュー戦とともに、その最南端アンガル島において、日本軍1200名の戦死を数えた日米の激闘もあった。

 

後世(戦後の、今の私たち)の人々に対して、「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心を持って戦いそして玉砕をしたかを伝えられよ」の詩を遺して、太平洋上で死闘を繰り広げた米軍太平洋艦隊司令長官ニミッツが、ペリリユー島の日本軍兵、そのほか数多(あまた)数多(あまた)の戦場に、祖国を守らんと散華された大和の国の将兵の闘志に礼をしている。この敵将ニミッツ提督の言葉こそ私は我ら先人同胞の方々に華向けたい!また米軍はこのペリリユー島を「天皇の島」と讃えた。島民は今日でも「英霊の島」と呼んでいる。平成8(1996)年靖国神社に参拝されたペリリュー島戦のアメリカ兵は、「日本軍は負けると判っている戦争を最後まで戦った。内部で反乱も起こらず投降もしなかった」と語っている。


(令和2年5月17日)

大東亜戦争最最多の戦死者を出したフイリッピン戦の続きです。

 

西村祥治艦隊の健闘

 主力艦隊がある意味では、全力を出し切れない、見方によっては中途半端ともいえる戦いをしているこの海戦で、特に私たちが銘記しておきたいことは、この決戦の直前に急遽参戦させられた西村祥治中将率いる一戦隊が、この錯綜とした戦場に果敢に単独突入していったことである。すなわち栗田主要艦隊に先立ちレイテ湾で、圧倒的な米艦隊軍団と激闘、敵側にも相当の出血を強いた末に日本海軍として恥なき玉砕を遂げていることである。もとより全滅、死を覚悟の特攻であった。武人の本懐を遂げた西村中将とその意気込みと故国へ殉じた将兵たちに感謝、合掌である!この西村艦隊の後を追った志摩清英中将艦隊も米軍の猛攻撃を受けたが、こちらは辛うじて戦場から離脱することができた。

 

ルソン島戦場

 制空権も、制海権も米軍にすでに抑えられていたにもかかわらず、全く反対に、我が軍が圧倒的に優勢と思い込んで、勇躍ルソン島に乗り込んだ鈴木勇作中将を指揮官とした軍団があった。しかこのしこの戦団もまた実情は何もかも手遅れの戦場だったことを思い知らされたのである。

 またこの悲劇の戦場で、はるばる満州から呼び寄せられた片岡薫中将率いる精鋭部隊は、物量豊かなアメリカ軍と激突、およそ50日間も戦い切った。1万3千の将兵は、その果てに生存者は450名あまりというすさまじいものであった。ここにも「祖国よ、永遠なれ」と願って散った先人・父祖という我らの同胞がいた。

 この片岡軍団に負けない奮闘をしながら、故国に敵を近づけまいとしてほとんど全部隊全滅といった軍団が相次いだ戦場であった。

 

「レイテ戦にこの戦争の勝敗を賭ける」としていた小磯首相の意気込みに反して、我が国は、燃料はもちろん、武器弾薬、そしてあろうことか飛行機そのものの致命的な不足により、思うままに戦い切れなかったのである。主要艦隊は消耗戦をやむなくされ、結局において致命的な打撃を受け、戦場から引き上げていった。しかしそれでも不充分とはいえ、敵アメリカ艦隊に少なからずの打撃を与えていたことも確かである。だがアメリカは艦船はもとより、その武力は無尽蔵であったのに対し、わが聖戦たる日本軍にはもう後がなかったのである。

 

そして主戦場は陸上のルソン島マニラに向かっていったのである。

 

マニラ戦

 レイテ海戦で多大の武器弾薬やその他の戦時物資を消耗した我が日本軍には、総勢28万を超える将兵を支える食糧などが戦闘不可能なほどに不足しており、そのため山下大将は、東京の大本営が本土決戦をするまでの準備の時を稼ごうと米軍をこのマニラに招来すべく長期持久戦として備えた。

 昭和20年1月、ついに米軍大艦隊がルソン島に上陸開始、またたく間にマニラに突入してきた。

 

この比島のある戦場で、持てる武器・戦力を全て投入して戦い切った戦団がいた。そこには死人のように眠りこける、すでに休養が絶対的に必要な兵士たちがいた。しかし迫りくるアメリカ軍を前に、指揮官は、「頼む!諸君の命を持ってどうか東京を救ってくれ!この戦場は東京に通じているのだ!」と叱咤した。いや哀願した。一瞬の間をおいて部下の参謀長は答えた。「やりましょう!」。これを聞いていた将兵たちの声がはじけた。「やりましょう!」。戦うことなど不可能と思えるような傷病兵も立ち上がった!このような悲壮の闘いの数々が、日本民族の無私の闘いが日本軍の強さであった。アメリカ陸軍戦史も、「日本軍は山下将軍の米軍拘束(比島に足止めさせる)の使命を完遂したものである」。と記録している絶対的な戦力の優勢にかかわらず、絶え間なき日本軍の夜襲・急襲に遭った米・マッカーサーの強軍にしてフイリピン戦から手を抜くことができず、終戦を迎えるまで日本本土へ進行することができなかった。その果てに我ら死闘苦闘の先人たちは多くの玉砕を重ねていったのである。これが大東亜戦争最大の我が日本軍50万の戦死者を出したフイリピン戦であった。硫黄島、沖縄戦(後述)などにも見られたように日本将兵は「故国よ永遠なれ!」と祈りつつ、明日の祖国のためにその命を捧げたのである。そして多くの戦場で司令官山下大将の「日本へ行かせるな!」の命令に、生き延びた兵たちは山中に逃げ込み、自活をしながら戦争終了後もゲリラ戦を続けていった将兵も多くいた。

 

マニラ戦は日本軍にばかり非があるのではない!

このマニラ戦線で特に述べておきたいことがある。それは戦後戦勝国アメリカによって問題にされた首都マニラの日本軍による非オープン・シテー化の問題である。しかしその事実はアメリカの言うように我が日本軍の不当とばかりとはいえないのではなかろうか。当時司令官山下大将以下、陸軍はマニラをオープン・シテにするため万策を練っていたことは明らかである。ただその反面、大本営は非戦闘地域化に反対しており、さらに海軍はこのオープン・シテの意義を十分理解していなかったようでもあり、戦闘継続を望んでいた。しかしその海軍も最後は山下大将の指揮に従い、オープン・シテイに向けて準備を始めていた。その頃アメリカは、一方で日本軍はオーオプン・シテをするだろうからと市民に安心感を与えておきながら、また我が日本軍の非戦闘地化(オ-プン・シテ)の動きを十分察知していたにもかかわらずマニラ市に進攻してきたのである(昭和202月)。当然ながら絶望の淵にあった日本軍は反撃を開始し、そこには陰惨を極めた現地人、兵士等無数のフイリピン人をも巻き込んだほぼ1ヶ月に及ぶ日米軍の激戦が行われた。この戦闘でも多くの我らの先人日本軍将兵は最後まで戦いきり、大隊長・連隊長ら将校たちの自決、部隊の玉砕全滅が相次いで起こった。その中では当然ながら「解放軍」アメリカ軍に寄って、日本兵を攻撃してきたフイリピン兵士や市民に銃を向け応戦せざるを得なかった日本将兵も多くいたのである。あまりの悲劇に再度言いたい。このマニラ戦もまた、海軍も陸軍も思うに任せない戦闘の大展開であった。最後は山下大将の訓令によって、ルソン島を始めとする多くの戦場で「持久戦」(ゲリラ戦)、いわば自給自足で多くの兵士たちは昭和20年の敗戦を迎えることになったのである。またこの終戦を知らず、あるいは上官の命令のままその後も戦い続けた将兵たちもいた。語り尽くすことのできないこの戦争悲劇の最たるものとして私たちは戦後20年闘い続け、昭和40(1965)年その山中から投降してきた小野田寛郎少尉を迎えたのである

 

多数の味方・敵兵や現地人にも戦死・犠牲者を出したこの戦闘の悪を戦後アメリカは卑怯にもその非は全て敗戦国日本にありとした。日本陸軍きっての名将の一人であった司令官山下奉文大将はこのときの責めを負わされてフイリピンの刑場の露と消えたのである(昭和殉難者)。私は戦後フイリピンでともすれば我が日本軍を批判する人々がいることについて、そのような方々にはこの戦闘は勝っていたアメリカの主導で行われたことを思い出していただきたいと願う。このレイテ・ルソンと続いたフイリピン戦は、大東亜戦争における我が国最多の死傷者をだした。そのためかフイリピンは戦後親日・反日が相半ばしたこともあり、我が国が有色人解放に賭けた心願が少なからず曲げられて伝えられたこともあったようだ。アメリカは大東亜戦争開戦前にフイリピンに独立を約束していた。しかし我が国は緒戦の奮闘で、反米に立っていた人々を日本軍軍政下に「独立」をさせていた。この人々が中心となって戦後のフイリピン「独立」を突き進める力となったことは確かであろう。

 (令和2年5月12日)

 

*戦争最終盤へー日本さらに苦境に

 昭和19年半ばのサイパンの陥落は、我が国が敗戦に向かっていることを、口には出さないが軍人にもまた国民にも見えてくるようになっていたと言えよう。このサイパン戦に絶対の自信があると言っていた東條英樹首相(参謀総長兼任)は退陣となった。新参謀総長梅津美治郎は、「一撃を加えて和平へ」の7割決戦なるものを打ち出した。

 追い詰められた日本は、フイリピン、台湾、沖縄、本土、北海道と進んでくると思われた米軍来襲に備える戦略を打ち立てていった。その間にもアメリカは中部太平洋グアム・テニアンなどに上陸、我が国のさらに危機は高まっていった(前述)。そして米軍はルソン(フイリピン)へと進めてきた。我が国軍部の動きは慎重であったが、サイパン陥落に逆に闘志を掻き立てられた国民の士気は高まっていった。新総理小磯国昭は、ルソンを主戦場と宣言した。 

  

*フイリッピン戦線  (昭和19年10月~昭和20年8月)

絶対防衛圏として、比島(フイリッピン)に一大航空基地を築き、全空軍を投入して日米の雌雄を決しようと、大本営と総軍(寺内寿一元帥総司令官)は、ここに至ってもなお米軍の実力を過小評価、自らを過大にみた壮大なる作戦に出た。ここにレイテ、ルソンと続いたフイリピン戦線の致命的な戦況判断の誤りがあった。サイパン戦でのマリアナ沖航空戦で著しく戦闘爆撃機などを失った我が軍にはすでに、その飛行機そのものが致命的に無いことを知る黒田重徳司令官は勝てるはずもない航空戦は放擲して、ルソン島に地上基地を備えることを強く主張した。そのため大本営は意のままにならない黒田重徳中将に変えて、満州にいた山下奉文大将を現地軍司令官とした。このときすでに米軍はレイテに大攻撃をかけてきていた。山下大将も当然フイリッピン主要都市マニラのあるルソン島で我が日本の最後の決戦をすることを望んでいた。しかし急激なる戦局の流れ、情報の行き違い、見込み違いなど負け戦の続く我が日本軍に戦場の選択という主導権を取れる状況ではなかったのである。

このような大本営と現地軍との作戦上の食い違いが、敗戦続きの日本軍の各地の戦場で顕著にみられたのは如何ともしがたいものであったろうか。このレイテ海戦こそ我が日本海軍の、いや日本の存亡を賭けた最後の戦いとみなされたが、わが軍は健闘もむなしく南海の海に多くの将兵や戦艦を消えさせていったのである。

 

レイテ沖海戦―輸送船団攻撃か艦隊決戦か

サイパンを落とされた我が日本は、いよいよ敵軍の本土上陸攻撃も覚悟せざるを得なくなってきた。2年前屈辱的に、日本軍にフイリピンを追われた米軍ダグラス・マッカーサー大将は、自らの“太平洋戦争”の根幹であるそのフイリピン奪還を目指してわが軍の予想を超えてレイテ湾に進行してきた。このフイリピン戦に臨んだ大本営は、主としてアメリカ軍の上陸部隊輸送船団を叩くことを主眼とした。これを聞いてこの一戦を託されていた主力栗田艦隊は唖然とした。この戦いに最後の運命を賭けていた海軍連合艦隊は当然敵戦闘艦隊への攻撃を主張した。すでに事実上この大東亜戦争に敗れたことを認識していた海軍は、勝てないまでも思う存分敵戦闘艦隊と闘ってその「死に花」を咲かせたかったのであろう。しかしそのことは十分知りつつもそれに応えるべく力がもう大本営には、いや日本軍にはもう無かったのだ。悲しいかなこの我が軍の作戦本部と、実戦部隊との戦闘に対する思惑の差が乾坤一擲と期待されたその後の戦闘展開にまで微妙に影を落とした戦いとなっていった。

 

この世界戦史最大といわれた壮大なる海戦は、ある意味では軍(大本営)が国民へ伝えた無言のメッセージ、「日本丸という船はもう命運がつきかけている、よって備えよ」 ともいえるものであったろうか。後の戦艦「大和」の海上特攻に先駆けた日本海軍の悲壮なる覚悟の戦いであった。

レイテ湾に進行してきたアメリカ艦隊に対し、日本軍は主要部隊の栗田建男中将艦隊、志摩艦隊にレイテ突入を指令し、小沢治三郎中将機動艦隊を(おとり)(おとり)として繰り出し、我が連合艦隊の総力を挙げて向かい合った。しかし日本軍は海上戦の生命線とも言える通信情報網をたたかれ著しく弱体化しており、艦隊同士の連絡が十分取れない状況にあった。さらに進行2日目に、米軍の満を持しての魚雷攻撃と空からの猛攻撃によって栗田長官の旗艦と主要艦2隻がまたたく間に沈没させられてしまった。

 

戦艦「武蔵」の最後

戦艦「大和」とともに、日本海軍の誇りであり、絶対不沈といわれた、世界最強の超弩級戦艦「武蔵」はその一際目立つ容姿から敵攻撃を一身に受けるべき、出撃前にさらに目立つように船体に派手な色彩のペンキを塗って出動した。アメリカ軍の空爆、魚雷などの猛攻撃を受けた覚悟の「武蔵」はやがてアメリカにも砲術の権威としてその存在を知られていた艦長猪口敏平少将とともに南海に沈んでいった。

猪口艦長の遺書は、「・・・唯本海戦に於いて他の諸艦に被害ほとんどなかりし事は誠にうれしく、何となく被害担当艦となり得たる感あり・・・」と自らの沈没が他の船隊の士気を弱めないことを心にかけていた。

 

栗田艦隊の進行、反転、さらに再転・・・そしてオトリの小沢艦隊は・・・

 旗艦「愛宕」を沈められた栗田司令官は、戦艦「大和」に移乗した。しかし前述のごとく通信情報の混乱から、また次々と襲いかかってくる敵艦隊とのめまぐるしく変化する戦局のため、進行、反転、また再転を繰り返していった。すなわちあまりにすさまじい米軍の攻撃のためこれ以上進行を継続すれば艦隊そのものが絶滅してしまい、目的のレイテ湾突入は無理と判断、反転を決意した栗田司令官であった。米軍艦隊はこの日本軍の反転を自軍の完勝ととらえ、本隊と思っていた小沢艦隊に向った。何と米軍はこのオトリ小沢艦隊を主力戦団とみていたのである。米軍の小沢艦隊追いかけを見た栗田艦隊は再びレイテ湾へ反転進行を目指した。日米両軍とも敵のコワサを知るゆえの誤認を重ねながらの死闘であった。そしてその中でオトリとしてこの戦場に臨んでいたこの小沢艦隊は急遽(きゅうきょ)急遽(きゅうきょ)戦艦を空母とするために主砲を下ろしたものであった。それは飛ぶべき飛行機も少なく、さらに訓練不足の搭乗員という戦うことのできない空母戦隊であった。まさに勝算なき、絶対的死を前提とした出陣であったのだ。先に述べた栗田主要艦隊との通信不能のためにメクラ状態のまま、敵アメリカ戦隊の執拗な追いかけ攻撃に会い、逃げ切れずついに応戦した。そしてこの海上戦でもほとんどの戦艦が撃沈された。やっとこの地獄の戦場から離脱したとき、生きていることが信じられない将兵たちであった。

 

栗田艦隊再度の転進

 それでも再びレイテ湾を目指した「大和」を中心とした主要艦隊であった。東京首脳部は「~天佑を確信し、全軍突撃せよ!」という。それはすなわち「みんな祖国のため死んでくれ・・・」ということでもあったのであろう。この悲壮の指令(願い)を受けた後に、栗田長官は再度反転をした。またもやレイテの戦場から離脱したのである。それは決して死を恐れたのではなく、おそらくは何としても、「輸送船団などを相手にして将兵を死なせられない。真の日本海軍の死処を求めていこう」というココロの戦場離脱であったのであろう。このときすでにその戦隊の半数近くを失っていたのである。いずれにせよこれは兵を想い、祖国を想っての栗田将軍の断腸の決断であったのだ・・・このとき小柳参謀長は重度の負傷を負っていた・・・

 この混戦のレイテ海戦の最中、米軍は日本軍栗田艦隊が突撃してくるのを覚悟、まさにやられると観念した瞬間があった。しかし当の日本艦隊は何と反転してしまった!すなわち攻撃してこなかったのである。おそらくは反転・進軍を繰り返していた日本軍の、後にして思えば悔しい一瞬でもあったろう・・・

 

(令和2年5月7日)

 

 

 

 

*悲劇のサイパン戦 (昭和19年6月~8月)

ソロモン・マーシャル諸島などの日本占領基地を陥落させたアメリカ軍は、昭和19年、超要塞(スーパー・フオトレス)とも呼ばれた、まさに空飛ぶ要塞B29長距離爆撃機を戦線に登場させた。4トンの爆弾搭載、3000マイル飛行可能で、わが軍の高射砲がいかにしてもはるかに届かない30000フイート上空を飛ぶ、わが軍にとっては本土防衛への悪魔のような米の新兵器であった。ついにアメリカは我が日本本土空襲を目指してきたのである。その中継基地とされたのが日本の重要基地サイパンである。このサイパン戦を、東京の東條首相などは難攻不落として強固な陣地体制の基地とみて絶対の自信を見せていた。住民2万5000以上も住むサイパンを守るべく、小畑英良司令官は3万の将兵の水際作戦で米軍艦砲爆撃を迎えた。水際戦略でアメリカ軍を上陸時に撃破しようとする日本軍に対して、米軍は(のち)(のち)硫黄島や沖縄でも繰り返されることにな世界戦史上空前絶後ともいうべき艦砲射撃と空爆を浴びせてきた。戦闘当初はこのすさまじい米軍の攻撃に影を隠し潜んでいた日本軍はいざ敵兵上陸に至るや、一斉に大砲・機関銃など持てる兵器を存分に駆使した反撃に出た。しかし瞬時はたじろいだ米軍ではあったがその攻撃は止むことがなかった。これに対し我が軍は民族の意地をかけてここでも肉弾反撃でこれを対した果せるかな瞬く間に空も海も圧倒させられてしまったのである。上陸してきたアメリカ軍に奪われた橋頭堡などの奪回を目指し攻撃を繰り返したが、兵器の量・質とも格段に劣る日本軍のそれは多くは失敗、戦死者の数を増やしていくのみであった。

 

苦戦するサイパン将兵を救おうと、海軍は小沢治三郎艦隊、栗田健男艦隊が上陸せんとするアメリカ艦隊と応戦、いわゆるマリアナ沖海戦と呼ばれた空中戦に進んでいった。しかし最新の銃砲装備の米軍の前に、「マリアナの七面鳥討ち」と米軍に揶揄(やゆ)揶揄(やゆ)されたほどに攻撃機大半を失う大惨敗を喫してしまった。この思いもよらぬ戦況に、身動きの取れなくなった参謀本部は非情のサイパン放棄を決定していったのである。

また米軍の歩兵団上陸、その攻撃も言語に絶するほどの激しさで、一兵も打ち漏らすまいとする征討前進であった。「どんな小さな洞穴、くぼみ、草むらも見逃さず、前方に動く影に容赦なく銃弾を浴びせた。このため将兵だけでなく、水を求め隠れ場所を探してさまよう市民も少なからず打倒された」のである(児島襄 「太平洋戦争」)。 充分以上の火焔銃による攻撃をした後の戦いでも、我ら日本軍将兵は米兵にとって恐怖の極みであった。生き残ったニッポン兵士たちはナイフ一つ、銃剣一つの肉弾戦でアメリカ兵に向かっていったのである。そのオソロシサのためか米軍の攻撃も思うに任せず、現地指揮官少将が解任されることもあったほどである。

支援の来なくなったことを知らない将兵・住民たちは毎日遥か海上を見つめて日本艦隊を待っていた。しかし陸軍司令官斎藤義次中将はすでにこのことを察していた。一日でも永くサイパンに敵を引き付けておこうとする、まさしく、「東京にやらせるな」という持久戦にその戦いを切り替えていったのである。だが敗勢いかんともしがたく、「最後の一兵まで戦え!」の命令を残して斎藤中将、南雲司令官も最後には自決に追い込まれた。立ち上がれないほどに疲労した斎藤中将の最後の言葉は、「斬り込みにみんなと一諸に行けない。疲れた」であった。そしてハワイ真珠湾攻撃の英雄南雲中将の自決には、将兵住民たちが、当時第二の国歌と言われた「海行かば」の斉唱でその死を飾った。

 

海征かば 水漬くかばね  山征かば 草むすかばね 大君の 辺にこそ死なめ

かえりみはせず

 

南雲忠一中将は自決の前に、「サイパン島守備兵に与うる訓示」を読み上げた。

  「・・・今や止まるも死、進むも死・・・今米鬼に一撃を加え太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす・・・」

多くの将官がこれを機に万歳を唱えながら自決していった。

 

多くの戦場で見られたこと故、米兵たちは知っていた。残された日本軍将兵たちが、自分たちに向かって最後のバンザイ突撃で進んでくるであろうことを・・・

「日本軍が突撃してきた・・・走ってくる者もあったが、大声で歌をうたいながら歩いてくる者、あるいは酒に酔ってふらつく者もいた。武器も小銃、棒に銃剣を縛り付けた手製の槍、竹槍・・・中にはなにも持たない者もいた。ただ全員に共通していたのは絶対に引き返さなかったことである」。その恐怖にアメリカ兵たちには同士討ちさえ起った。「お国のため」に負けていたことを知り、殺されることを覚悟して、さらに敵に向かったその姿を米兵たちは忘れていない。それが我が日本軍兵士の負け方であった。国の為にここまで戦った方々は英雄だ。まさしく神である。その戦いは私たち日本人にとっては文字通りの「聖戦」であったのだ!この白人に対する怒りの聖戦が、後の見られた“捨て身”の特攻などと相まって米英ら連合軍に日本の国家としての消滅となる「無条件降伏」を強制させることを躊躇させたともいえよう・・・

さらに取り残された絶望の住民たちは、兵隊さんたちのバンザイ突撃にも勝るほどにアメリカ兵たちを恐怖のどん底に陥れた。「虜囚の恥」を恐れてスーサイド・クリフ、バンザイ・クリフで次々と海上に身を投げていった。女同士手をつなぎ、また幼子をしっかりと抱きしめて身を投じた若い母もいた・・・その凄惨な「死の行進を」見て米兵たちはただ茫然と立ち尽くすのみであった・・・

サイパンは昭和19年7月陥落した。32000の将兵は、約1000名の捕虜となったもの以外ほとんど戦死であった。住民25000も、死者となったものが1万を超えていた。サイパンが落ちたことにより、我が国領土へ米軍空襲への危機は一挙に高まった。

 

サイパン戦は自信があると言った東條英機総理は退陣、日本は小磯国昭大将体制へ移っていった。さらに日米の総力を賭けた死闘はこれと相前後して、前述したタラワ・グアムなど中部太平洋地域へと拡大していったのである

 

大陸打通作戦 (昭和19年4月~昭和20年2月)

我が軍は支那大陸を南北に縦断する鉄道を確保するため、その中途にあるアメリカ空軍基地を攻撃して、インドから南方軍までの回廊進行を成功させた。少しでも連合軍の日本本土爆撃阻止をさせようとしたものであった。わが軍はこの作戦に総勢50万の兵力を投入した。これをみても支那大陸での戦闘はその大半は我が軍の勝利であった。支那(戦後の中国)が戦後、戦勝国となったのはひとえにアメリカ軍などの支援のおかげであったのだ。戦闘そのものでは、我が軍は支那軍を圧倒していたのである。敗戦が続く大東亜戦争中期以降の日本軍作戦の中で、数少ない成功の闘いであった。しかしこの戦争そのものの大勢を覆すにははるかに及ばなかった。勝利の女神はすでに我が日本軍から離れていたのである。

 

(令和2年5月2日)

 

 

第七章 大東亜戦争聖戦論  二 終盤戦

 

終盤の苦闘、悲劇の戦闘の数々

*中西部太平洋戦線

昭和18年8月イタリアが降伏した。さらに三国同盟はあってもほとんど連携のなかったドイツによる英国打倒と、それがもたらすと期待された米国の戦意喪失などは、我が国の劣勢状況も加わりいまや望むべくもなくなってきた。逆に地中海方面など欧州戦線で不要となった英艦隊など連合国軍が打倒日本を目指して太平洋・アジア戦線に回ってきたのである。ガダルカナル・ニューギニア島で苦戦、次々と将兵が戦死、戦艦戦闘機などの大幅な損害は、我が日本軍の数はともあれ、質的兵力の低下を招いていた。それでも日本はこの大東亜戦争を、聖戦をまだやめることはなかった。いやできなかった。何より敵アメリカが、イギリスが自分たち白人の天下を覆そうと挑戦してきた有色民族・我が日本を許す気がなかったのである・・・

 

 米軍は次なる戦場を、フイリピン、さらに沖縄など日本本土に近づくため、まずギルバート諸島・マキン、タラワやクエゼリンなどのマーシャル諸島、トラックを中心としたカロリン諸島などの奪還を目指し、中部・南西太平洋に浮かぶ我が日本の占領基地に攻撃を仕掛けてきた。

 

  • 中部太平洋での緒戦のギルバート諸島タラワに向かう米海兵隊員はそれまでのガダルカナルやニューギニアでの日本軍の苦闘を知っており、日本兵はもう逃げていると自信を持っていた。しかしその反対に幹部将校たちは逆に何か一抹の不安を拭い切れなかったようであった。果たして日本軍は猛訓練で待ち構えていた。ここでも史上に残る日本軍兵士と米軍最強と言われた海兵隊員との壮烈な闘いが始まった。武器、特に火力兵器で致命的に劣る日本軍将兵は、まさしく命を盾に健闘した。ある戦闘では、「桟橋を沿って進むと、どの橋の杭にもしがみついて動けぬ海兵の姿があった。波間に死体がただよい、壊れた水陸両用車が煙をはいていた。海岸はごった返していた。波うちぎわまで、弾丸を避けてうずまくる海兵で充満している。ライフルは点々とさかさに砂浜に突き立てられ、つり下げられた輸血用血漿瓶の下で負傷兵がうめいていた・・・」というほどの惨状を米軍に強いていたのである。しかし相次ぐ連隊長、中隊長など指揮官の戦死により、日本軍の組織としての戦いは多くの戦場で終わりを告げていった。それでも生き残った将兵の「バンザイ突撃」などその闘志はすさまじく、米軍をして一時は敗戦を覚悟させた戦闘もあった。しかしいかんともしがたい兵力の絶対的不足に悩む日本軍将兵には止めをさす力は残っていなかった。タラワは陥落した。日本軍5000名、米軍1000名の戦死が残った・・・

     

これらギルバート諸島タラワ・マキンと破られた日本をみながら、連合国はカイロ・テヘランで会議をしていた。連合軍は我が日本の無条件降伏と領土没収を確認していたのである。我が国は国家消滅の危機に直面していた・・・ソ連は対日参戦の意思を表明した。まだまだ日本軍は強大とみていた英米はこれを歓迎した。

 

 続いてソロモン(ブーゲンヒル島)、クエゼリン(マーシャル諸島)やカロリン諸島(トラック)なども連合軍に撃破された。わけてもわが軍の太平洋方面主要基地であったトラックの兵たちは、周囲の激戦をよそに、魚釣りなどで南海の海を楽しんでいたが、やってきた米軍攻撃の前には文字通りひとたまりもなかった。各地の戦場で将兵は奮闘するもついにはかなわず、玉砕が相次いだ。

 

 この中部太平洋戦の最中に、山本長官を継ぎ、戦況立て直しに懸命であった古賀峯一連合艦隊司令長官が「殉職」した。

 

*記述が前後するが、苦戦を強いられる我が日本は、ついにそれまで猶予していた文科系大学生たちを戦場に送るべく「学徒出陣」を敢行した。故郷に、家族に、また学業に想いを残しながら、死を覚悟した学生たちが参戦していった・・・

 

さらに太平洋上の戦いは私たち日本人には特に忘れられない、忘れてはならないマリアナ諸島にある日本軍重要基地サイパン攻防戦、フイリッピンの死闘へと繰り広げられていった。同じころアジア戦線では・・・

 

インパール戦 (牟田口廉也中将指揮)(昭和19年3月~7月)

中西部太平洋諸島で強敵米海兵隊と死闘を繰り広げていた日本軍であったが、アジア戦線でも圧倒的物量の連合軍と気力闘志の日本軍は(しの)(しの)ぎをけずっていた。このアジアの戦場で最も我が国の国民将兵の目を引いた戦いの一つがインパール戦であった。

 

ビルマ奪回を目指す英軍を軸とした連合軍と、インド独立を支援する日本軍との壮絶な攻防戦となった。祖国日本にはまず存在しないような大河、ほとんどが3000メートル級の山々、そして現地民さえも恐れて足を踏み入れないマラリアなど病原菌が充満していると言われていた「死の谷」など、自然の敵が日本将兵の眼前にあった。雨季には川となるジャングルもあり、日本軍も一度は断念したインパール作戦を、ビルマ方面第15軍司令官河辺正三中将、現地指揮官牟田口廉也中将は強行した。そのあまりの自然の厳しさを懸念した、戦闘の中心となるべく三師団は躊躇(ちゅうちょ)躊躇(ちゅうちょ)、いや反感さえ示していた。武器弾薬ばかりでなく、食糧輸送にも大きな不安があった。空をすでに制せられていたわが軍は、車や航空機に頼れず、牛馬や象などに荷物を載せての行軍であった。しかし将兵の闘志はすさまじかった。ついには英国軍を目標の地に追い詰めたこともあったのである。一方英軍は日本軍に囲まれても、空からの日本軍攻撃、ヘリコプターでの武器弾薬・食糧などの輸送でそれほど窮することもなかった。やみくもに突撃命令を下す牟田口司令官の檄に、苦闘悪戦の三師団は前進していった。そしてほとんど当初の作戦通りの成功まであと一歩までこぎつけた。だが始めからこの作戦に消極的で、また指揮官牟田口中将とソリが合わなかったとされる第三十三師団柳田元三中将は、敵の反撃を恐れるあまりか、「統制前進」で進軍を遅らせる「漸進」で英軍打倒の好機を逸してしまった!

多くの戦場での、戦車と重爆機の英軍と手榴弾・銃剣の肉弾の日本軍との戦いが続いた。大河と高山進撃のわが軍は食糧不足と疲労で兵が次々と脱落していった。行進する道には多くの悲惨な将兵の戦死・病死者が斃れていた。このインパール作戦の成否を賭けた「三叉路高地」の激戦で、死を恐れぬ、死ぬまで戦う我が日本軍の兵士は、連隊長、中・小隊長など戦闘指導者が先頭になって斬り込み突進していった。その(しかばね)その(しかばね)を乗り越えていった。この苦闘にも多くの日本軍兵団は歌をうたって、笑いながら、自分たちの悲運を文字通り笑い飛ばしながら戦っていったのだ。

 雨のアラカン どこまでも

担架かついで さまよえど

米の補給は さらになし

(かて)(かて)を求めて 移動する   

 

兵たちの歌にもでるほどの糧食、武器不足にも闘えと叱咤するだけの司令部に、健闘する第15師団佐藤幸徳師団長は「独断退却」で将兵を救おうとした。ここについにンパール作戦中核三師団長の更迭という前代未聞の事態が生まれた。この時の病に苦しみながらも将兵を励まし、戦闘を続けていた山内正文中将までもクビにしたのは牟田口司令官の「行き過ぎ」であったようにみえる・・・敗戦苦戦の中、遂には苦悩する河辺・牟田口両司令官も「敗退」を認めた。その退却戦もまた苦しい持久戦となっていった。飢餓に泣いたガダルカナル島を上回るともいえるインパール戦であったが、その敗退、玉砕の相次いだ戦場で、将兵たち皇軍の兵隊の真底を見せた戦いでもあった。

 

敵英軍の指揮官の一人、スリム中将は、「・・・かくのごとく望みなき目的を追求する軍事上の分別は何と評しようとも、かかる企図を遂行した日本軍の最高の勇気と大胆さを疑う余地は少しもない。この意味において日本軍に比肩しうる陸軍は、他のいかなる国にも存在しないであろう」と語っている。敵将による、このに倒れた我が将兵への最高の賛辞であり供養であろう。

 

日本軍としてのインパール戦は敗れたが、国民的英雄チャンドラー・ボースに率いられていたインド国民軍(INA)が主体となり、ボースの不慮の死を乗り越え、インドは念願の独立へ向かっていった。また大東亜戦争(第二次世界大戦)後インドでも「戦犯」裁判が行われたが、インド国民は猛烈な反対行動で立ち上がった。デサイ弁護団長は、「日本軍がインド国民軍を編成して、武力によって進軍させてくれた。この進軍が公民運動となり、老獪なイギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立を決定づけたのは結局日本(軍)であった」。と述べている。インドは1947年独立を達成した。

 

(令和2年4月29日)

 

 

「降伏」しない我が日本軍の壮絶な死闘が続く・・・

 

戦争中盤戦

 

*アッツ・キスカ戦昭和17年6月~18年7月)

  南太平洋のガダルカナル・ニューギニアなどとはまさに正反対の、北海アリューシャン諸島アッツ・キスカ(アメリカ領土)の将兵は、「カムチャッカ・樺太方面などの対ソ戦準備」として駐留していた。しかしここでも、戦略的にはあるいはそれほど重要とみなされなかったのか、海軍は支援、陸軍は撤収を主張、その戦略思考はかみ合わなかったようである。そんな本部中央に翻弄されながら、アッツ島将兵(山崎保代大佐指揮)は米・大軍2万に攻められ、引くも進むも不可能になっていった。

この戦場でも海・空をアメリカ軍に握られたアッツ島守備隊2000余名を敵軍2万が3日で陥落させると攻撃を仕掛けてきた。だがあっぱれ我が日本軍は約20日間近くもその特異な地形を活用して大奮戦したのだ。しかしあまりの兵力の差についには全員玉砕となった。最後に山崎大佐は、150名となった残存兵士たちと、全ての軍人・軍属に対しての訓示した、「共に生きて捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり、他に策無きもあらざるも・・・英魂と共に突撃せん(原文カナ書き)」という電報を打って玉砕の最後を果たした。

 

 このアッツ島攻略に立ち向かった米軍中隊長・ハーバート・ロング中尉はこのときの日本軍の闘志に度肝を抜かれたという。

「・・・霧がたれこめ、100メートル以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵攻撃かとすかして見ると、300~400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸を持っている・・・・どの兵隊もボロボロの服を付け青ざめた顔をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに、みんなどこかを負傷しているのだろう。足をひきずり、膝をするようにゆっくり近づいてくる。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた」

30名弱の負傷兵の捕虜を除く全員玉砕の島、聞くべき将兵絶え、電波なき島に、昭和天皇は

健闘を讃える「電報」を贈った。

 

その一方で、隣のキスカ守備隊5600名がこれもアメリカ軍の重囲に陥ったが最後に濃霧の中、海軍の突進によって全員奇跡的に救出された。

 8月中旬無人のキスカに上陸した米軍は各所で「同士討ち」を展開した。島には3匹の犬が居ただけだという・・・  

 上陸した米兵はそこに一つの慰霊碑を見た…

 

「青春と幸福を母国の為に進んで捧げた英雄ここに眠る」 (原文―英文)

1943年7月25日日本守備隊

  この基地を守っていた自分たち日本軍を空爆し、自爆した米戦闘機乗員への顕彰であった。

     

 

 戦争の、そして敗れた闘いの将兵たちにとって運命もまたさまざまであった。

(大東亜戦争研究室「大東亜戦争全史」&相澤宏明「世界から見た大東亜戦争」)

 

 

 アッツ島日本守備隊は我が日本軍の大東亜戦争における始めての一部隊ほぼ全員という玉砕、全滅であった。

この玉砕が国民に告げられ、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が作られた。国民の間では、「山崎部隊に続こう」が合言葉になった。この後2年に及ぶ先人たちの、アッツ島に負けない苦闘が多くの戦場で敢行されたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

=:==:==:==:==◆◇◆アッツ島血戦勇士顕彰国民歌◆◇◆=:=:==:==:==:=

 

刃も凍る北海の

御楯と立ちて二千余士

精鋭こぞるアッツ島

山崎大佐指揮をとる

 

時これ五月十二日

暁こむる霧深く

突如と襲う敵二万

南に向え北に打つ

 

血戦死闘十八夜

烈々の士気天をつき

敵六千を屠れども

我れまた多く失えり

 

 

=:==:==:==:==◆◇◆アッツ島血戦勇士顕彰国民歌◆◇◆=:=:==:==:==:=

 

                                  (令和2年4月25日)

 

 

大東亜戦争聖戦論#22

第6章 3 戦争中盤戦 -日米攻防の逆転

*ニューギニアの闘い (昭和17年3月~20年8月)

                           

オーストラリア攻撃の拠点を掴もうとする日本軍と、フイリッピン反攻への重要基地とせんとするアメリカ・オーストラリア連合軍との死闘であった。昭和17年3月から20年8月まで大東亜戦争戦闘終焉まで激戦が続けられた。

 

 ガダルカナルと同様、この時の悲惨な苦しみをある兵士はその日記に、「10月17日(昭和17年)遂に食糧は完全になくなった。木の根を食い、草を食う。10月19日 ほかの中隊では、とうとうオーストラリア兵の死体の肉を食べるものが出た。なにも食うものがない」と伝えている。ここでも圧倒的物量を戦場へ送り続ける連合軍に対し、海も空も自由にならない我が軍は、極度の食糧不足と武器弾薬の欠乏に悩み、幾多の戦場で敗戦を重ね、玉砕となって果てた部隊が数多くあった。また連合軍の攻撃を避けるため、4000メートル級の山脈の踏破、人踏未踏のジャングル地帯の行進を余儀なくされた。それはまさしく敵米豪連合軍との闘いと同時に、ニューギニアの熱帯・高地、また日本では想像すらできないような大河という自然との闘いでもあったのだ。その中で増援無き孤高の戦いを強いられて苦闘する将兵は自分たちの戦いを歌にして自らを鼓舞していった。多くの戦場で日本軍将兵はよく歌をうたった・・・苦しさを紛らわせた・・・

     

森の繁みに月影淡く  何処で鳴くのか虫の声

砲声(つつおと)絶えてひとときは  (まぶた)に浮かぶ亡き戦友(とも)の顔

砲声(つつおと)絶えてひとときは  (まぶた)に浮かぶ亡き戦友(とも)の顔

怨みは深しダンビール  空も裂けるか砲爆撃に  

「ラエ」、「サラモア」の山容変わる

何だ貴様も生きてたか 見ろよ陣地は跡形なしだ

山も消えたよ森もなし

 

 

時には現地人を味方とし、時には敵として戦争に巻き込みながらの自活の道を探るしかできない部隊の将兵も多かった。マラリアや赤痢などに倒れた将兵はここでも我が日本軍ばかりでなく、敵の米豪軍にも少なくなかったが・・・日本兵は闘った。ある米軍のある中隊長は、日本軍のギルワという野戦病院にいた日本軍の惨状を報告している。「・・・その光景は悲惨だった。多くの傷病兵が群がり、そのほとんどは飢餓寸前だった。中隊(米)の兵士の一人は、骸骨が歩いていると身震いした。だがそれでも日本兵たちは反撃してきた・・・」。

 

この悲劇の軍団は、自らを「行軍兵団」と称し、敵から逃れるため、また敵を追い求めてと、目まぐるしく変化する戦場に翻弄され、歩き回った。最後にはその敵からも相手にされず、大本営からもある意味では「あきらめられた」ともいえる軍団であった。この絶望の軍団を率いて暴動も反乱も起させなかった足立二十三司令官(中将)もまたみごとな大和・日本の将軍であった。いや玉砕を迎えた多くの戦場でも日本の将兵はほとんど反乱などを起すことはなかったのである。

ガ島以降敗勢の続く友軍の劣勢挽回を図らんと、連合艦隊司令長官山本五十六も動いた。いくつかの作戦を仕掛けていた。だが国民や日本軍将兵、特に海軍将兵の信仰にも似た尊敬を受けていた山本長官は、広大な南海の島々に散らばる戦場で苦闘する将兵の士気昂揚のため自ら飛び立ったその途中で米軍に撃墜されてしまった。

 

 いよいよ運命極まっての玉砕進撃にも意気軒昂なる将兵に足立中将は涙の檄を飛ばした。「~健兵は三敵と戦い、病兵は一敵と戦い、重患はその場で戦い、動き得ざるものは刺し違い、各員絶対に虜囚となるなかれ」(山岡荘八「小説太平洋戦争」)。これらニューギニア兵団は何とその後も奮闘し、昭和20年の敗戦まで闘いきったのである。まことに鬼神のごとく恐るべき指揮官であり、将兵であった。

 また真珠湾やアジア方面での緒戦に於いては圧倒的な力を発揮していた我が日本軍の零戦戦闘機であったが、ガダルカナル戦やこのニューギニアの戦いの頃より、徐々に米国はこのゼロ戦を上回る新しい戦闘機などを戦場に送り込んできた。対してわが軍は熟練パイロットなどが相次ぐ航空戦で次第に減り始めていた。

足かけ四年に渡ったこのニュ-ギニア戦に日本軍は20万の将兵を投入した。しかし戦闘終焉後、祖国の土を踏めたのは僅か2万であった。大東亜戦争史上に特筆されるべく悲惨な戦闘の一つであった。他の戦場にもあったことだが、この日本の運命を決めたとも見られるニューギニア戦は、兵士も将軍将校もまさに共に枯れ果てるまで闘ったのである。当時これが国民に知らされることはなかった。あまりに悲惨な闘いのためであったがために・・・

 

 常人の想像を絶するまさに文字通りの絶望的な戦いの故に、通常の戦争ではあり得ない軍司令官が第一線で陣頭指揮までした日本軍第18軍の安達二十三中将は、戦後の東京裁判で、部下の弁護に全力を尽くし、その責を果たしたことを見極めて、昭和22年9月、18万の将兵とその遺族、天皇陛下と同胞国民にその「敗戦」を詫びて自決した。

 

 その遺書にはこの戦闘に倒れた将兵の霊とともに南海の海に眠らんとする中将の想いが込められている。

 

 「・・・そして全将兵が之に対し黙々として此命令を遂行しつつ力尽きては花吹雪の如く散り行く姿を眼前に眺めしとき、君国の為とはもうしながら我が胸中に沸き返る切々の思は唯神のみぞ知るべし。当時私は縦令陣没するに到らず凱旋に直面するも必ず十万の将兵と共に南海の土となり再び祖国の土を踏まざることに心を決したり・・・」

 

(令和2年4月20日)

 

 

大東亜戦争聖戦論 #21

 

(前回のガダルカナル戦ー続き)

 

中央エリート参謀たちの致命的過誤

海も空も制せられた我が軍は懸命の兵器、食糧などの補給が思いのままにならず、世界の戦史にも稀なほどの悲惨を極めた飢餓状態となった。国力の差を見据えて短期で米軍を叩こうとする海軍と、アジア諸国の占領政治をじっくりやろうとする陸軍の戦略歩調が合わなかったこと、兵力の漸次投入という、致命的ともいえる作戦過誤もあった。現地指揮官のこれ以上戦うことの不利という訴えを非情にも退け、「大和魂で米軍を撃滅させる」と豪語して中央から派遣された10余名の参謀たちの無謀とも狂気ともいうべき作戦であった。それまでは主にシナ大陸での戦いという陸での戦闘の経験しかなかった陸軍参謀たちの、太平洋という海上での戦争に対する無知、未経験ということでもあったと思われる。これら参謀たち、いや大本営のさまざまの負け戦への諸要因はあったであろうし、我ら父祖たちの想像を超えた非常事態への認識不足からもたらされた思い上がりが招いたともいえるガ島(当時の人々はこのガダルカナル島を飢餓のガと合わせてそう呼んだ)敗戦であった。まさに戦争とは狂気の事態なのである。苦闘数ヶ月、やっと敗戦を認め、何としてもこの飢えの将兵たちの苦境を救おうとした大本営でもあった。そしてともあれ友軍(自国の軍隊をそう呼んだ)の必死の救出作戦で、最後には3万5千を越す上陸兵のうち、生存1万3千強の将兵が奇跡とも言える撤退に成功した。それまで日本軍の上陸侵攻をことごとくこれを叩いてきた米軍であったが、このときの我が軍の救出作戦時には天佑なのか、また何かを勘違いしたかのごとくあまりには追撃してこなかったという幸運にも恵まれた日本軍であった。しかし結果としてその被害は言語を絶するほどに甚大なものであった。それは将兵二万余と、13万トンに及ぶ艦船、900機の戦闘機、世界に誇る百戦錬磨の搭乗員2300名強を失った悲劇のガ島敗戦であった。これこそがこれから幾多の戦場で敢行されることになる大和・ニッポン兵士の「聖戦」の闘いぶりであった!

一方この死闘では米軍もまた12万トンという、我が日本海軍とほぼ同じ船舶を失っていた。だが我が国にはこの損失を回復するには早くも国の力が弱くなっていたのに対し、アメリカはこれから戦えるというほどに国力が充実していたのである。

 

アメリカ軍も必死だった

 致命的な傷を負った戦友に涙ながらに「最後のため」の手榴弾を渡し、また戦闘に病に倒れた戦友たちの屍をさらしたまま去らなければならない日本軍将兵であった。しかし我が日本軍の、矢玉尽きてなおバンザイ切込みなどの敢行は敵米軍に少なからず、同じ戦場に生きる兵士としての衝撃と、ある種の感銘を与えていたことも事実である。このガタルカナル戦と次に述べるニューギニア戦を指揮したあるアメリカ軍将校は本国の上将に、「日本軍に勝つにはまさに全知全能、心底からの愛国心、限りない祖国への犠牲心を持つ真のプロの戦士でなくてはとてもかなわないであろう」と書き送っている。(ジョン・トーランド「大日本帝国衰亡記」)

 

 我が国とって誠に遺憾であったが、今にしてみれば、大東亜戦争の「行く末の大方」はこのガ島死闘によって早くも決定づけられていたともいえようか。この後に続く数多くの戦場で前述の古宮政次郎大佐が嘆いたように、近代戦争の核ともなるべく戦闘機、熟練のパイロット、火力武器などの絶対的不足に泣き、またこのころにはすでにほとんどの戦場で制空権、制海権とも敵軍に制せられていたのである。

 

 

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日本兵の強さとは

この絶望的なガ島で飢えに苦しむ将兵たちを救おうと、参謀本部からから派遣された参謀たちはある日の未明、森の中から

 

  一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし・・・

 

  一つ、軍人は礼儀を正しくすべし・・・  

 

という五箇条の「軍人勅諭」の奉唱を聞いた。そして、「突撃用意!」、「突っ込め!」の実撃号令の訓練の声が聞こえてきた。食糧さえ十分でなく、よろめき歩いている痩せた将兵たちの飽くなき、すさまじいまでの闘志、精神力に参謀たちも思わず頭を下げた・・・泣いた・・・

 

 これぞまさしくこのくガタルカナル島の将兵ばかりではなく、数知れない多くの戦場で圧倒的なアメリカ軍の物量弾薬に追い詰められ、絶望の戦場を戦い抜いた我ら父祖たちの真の闘魂の姿であったのだ。

 

軍人勅諭  

  最悪の戦場で数えきれないほどの死闘を繰り広げ、散華していった先人たちを支えたものが、我が日本民族の精神性の中核でもある武士道、天皇(国)への忠誠心、それは死してなお故国を守ろうという心意気であり、「教育勅語」と並び、この「軍人勅諭」が源であったといわれる。

 

      1. 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。

      2. 軍人は礼儀を正すべし。

      3. 軍人は武勇を尊ぶべし。

      4. 軍人は信義を重んずべし・

      5. 軍人は質素を旨とすべし。

         

         およそ国の防人となるべく軍人に求められる当然の精神であったといえる。それどころか一般人でも、「軍人」を、「我々」に置き換えればそのまま日常の生活にも心すべく心構えでもある。今日でも世界の各国の軍人たちにはこの理念は十分理解されるだろう。だが遺憾なことに我が国では、この勅諭が戦後教育の場から、また一般国民からも断絶されてしまったためにその存在すら知る人々は少なくなっていることである。そのために大東亜戦争時の我ら先人たちの“散華”という“戦死”を十分理解できなくなっているのが今日の多くの国民であり、日本である。私たちは今こそ「何が何でも日本軍軍人は悪だった」という先人たちへの冒涜を覆していかねばならない。あの戦場で、この激闘で我らの父祖たちは祖国のため、故郷の人々を守らんと、さらに私たち子孫存続のために闘われたのだ。その二度とない命を捧げてくださったのである。病いや飢餓などという戦士本来の戦闘でない多くの戦死を無駄死にだということの冒涜は許されまい!戦場での死にはいろいろとあったろう。戦場に勇躍行かんとしてなおその志半ばにして、その海上で敵の潜水艦に沈没させられた勇者もいよう。すべては国家を、郷土(くに)郷土(くに)の人々を守らんとして国のために倒れたのだ!これらの方々も戦闘で倒れた戦友たちと全く同じ故国の“英雄”なのである!

            (令和2年4月14日)

3.戦争中盤から終盤へー日米攻防の逆転 (昭和17年半ば~20年8月)

 

*ミッドウェー海戦  (昭和17年6月)

真珠湾、マレー海戦などで火蓋を切った大東亜戦争緒戦、いわゆる「南方作戦」は我が国の快勝で終了した。あまりの順調さに、陸軍では、「これからじっくりとやろう」という気分が出てきていた。しかし海軍永野軍令部総長、山本五十六連合艦隊司令長官などはアメリカの国力を恐れていた。その反撃体制が整う前に、敵海・空戦力の殲滅こそが日本の勝利への道であり、一刻を争うものであるとの信念から太平洋のほぼ中央にアメリカ艦隊をおびき寄せてこれを壊滅する作戦を主張した。一方アメリカは敗戦続きで意気消沈している国民を鼓舞するために我が東京の空襲を実行した。被害はそれほどではなかったが、山本長官は危機感を強め、ミッドウェー作戦を急いだ。

 サンゴ海海戦など前哨戦では、航空戦力、その技量がいまだ圧倒的に上回るわが軍の勝利が続いた。しかし史上空前の350隻、飛行機1000機、将兵10万の大艦隊をミッドウェーに向けた日本軍の動きはほぼ完全にアメリカに読み取られていた。今にして思えば誠に遺憾であったが、このころすでに外務省や海軍の暗号が敵アメリカに解読されていたのである。決戦迫る中、海上は濃霧に覆われ、レーダー力の弱かった日本軍は敵艦隊の位置をつかみ切れなかった。またミッドウェー島攻略か、海上決戦かに迷う我が軍は、戦闘寸前まで魚雷と戦闘機積み替えを再三繰り返していた。その時敵機の影を見た、僚艦「飛竜」指揮官山口多聞少将の「即航空攻撃」の提言を退けた南雲司令官が、最後の戦闘機へその搭載を決めたまさにその瞬間、米爆撃機が襲来した。その間、僅か数分(数秒?)であった。まさに日本軍にとって、いや故国日本にとって痛恨の数分間であった。我が海軍は完璧なまでの敗戦となり、ここに日米戦争の大いなる逆転への序章となった。

 南雲艦隊が退いた後、あえて戦場に残った山口少将の母艦「飛竜」は近くにいた米空母「ヨークタウン」を攻撃、破損させ、日本海軍の意地の一端を見せていた。しかし傷ついた「飛竜」も最後は総員退去となり、山口指揮官と加来止男大佐艦長は、折から出ていた月を愛でながら悠然と太平洋の底に沈んでいった・・・

 

 米太平洋艦隊司令長官ニミッツに、「真珠湾の復讐は一部成就された」の声明を出さしめた。

 

アメリカとのミッドウェー海上決戦に敗退した我が国は、さらに苦しい闘いを強いられていった。これから述べるルカナル、ニューギニア、アッツ・キスカ戦・・・と連合国の優勢は止まなかった。然し目を覆うようなこれらの負け戦に見せた、我ら父祖たち武器弾薬も食糧も尽き果てての玉砕や、敵兵からは狂気にも見えたであろうバンザイ突撃・斬り込みなどの戦い、同時に敵アメリカ兵を同じ兵士として感動せしめるほどのものあったとされる

 

*敗色が濃くなっていった中盤から終盤にかけて、苦闘を続ける日本軍将兵は多くの戦場で部隊、連隊などほぼ全滅という、玉砕を余儀なくされていった。現代人には想像を超えた、降伏しない日本人将兵であったのだ。そこには七度生まれ変わっても国に尽くすという「七生報国」という父祖たちの散り際があった。当時アッツ島の闘いの終焉を「玉砕」とした日本軍大本営の発表を報じた朝日新聞は、「玉砕は生命を捨てて道義に生き、命より名を惜しむ日本人の生命観であり、この壮烈極まりなき玉砕こそ萬代不滅の偉勲である」と国民に伝えている。

 

大東亜戦争の多くの戦場の中でも、とりわけその凄惨さ、非情の参謀本部の作戦過誤などが相次ぎ、そこに戦闘ばかりでなく、食糧不足、物資武器の欠乏などに倒れた無念の将兵が無数にいたガダルカナルの戦いを見てみたい。天皇の兵隊、皇軍を称した私たち先人・父祖たちの絶望の戦いに見せた日本人の心意気があった!

 

 

 

中部・南西太平洋の戦場

 

ガダルカナル戦(昭和17年6月~18年2月)

アメリカは我が日本軍作戦参謀本部の予想をはるかに早まる昭和17年6月、日本への反抗へ向けて武器弾薬をオーストラリアに向けて輸送させていた。これに気づいた海軍は米豪の連絡路を絶つために、オーストラリアに近いこのガダルカナル島に飛行場建設を計画した。しかしほとんど完成に近かったその飛行場を破壊、我が軍を撃破した米軍が上陸を果たしてきた。ここに大東亜戦争史に残る日米の壮絶を極めた死闘が繰り広げられていったのである。日米ともに南国のジャングルという未知の戦場で十分の地図もない地での、疲労とマラリアなどの病気、食糧不足に苦しめられながらも激闘を繰り返した。一進一退、こちらで善戦、別戦場では全滅などを重ねながら、国力に劣る我が軍は次第に追い詰められていった。3度にわたったソロモン沖海戦には善戦するもついには海上も空も米軍に制せられたこの戦場では、我が軍の必死の食糧・武器弾薬等の輸送もままならなかったのである。我が軍は夜の暗闇(くらやみ)暗闇(くらやみ)に紛れて、攻撃に弱い危険な輸送船に変えて、駆逐艦、潜水艦などによる「ネズミ輸送」など懸命の支援を続けたのである。「腹が減っては戦ができぬ」そのままに将兵たちはこの戦場を、「()(とう)()(とう)」と呼んだ。まさにアメリカ兵との戦いの前に、「武士は食わねど高楊枝」という武士道の日本兵も勝てぬ飢餓との哀しい格闘があった。しかしそれでも我が先人たちの闘志は少しも衰えなかったのである。

戦闘数か月、圧倒的な敗勢であったといえ、日本軍の健闘は再三ならず、米軍をして「負け」を覚悟させることもあったのである。ある日本軍の一連隊とアメリカ海兵たちの戦闘は、「日本軍は大地を踏みならし、鉄条網を銃剣で切り破り、手榴弾を投げ、小銃を乱射して突進した」すさまじさであった。この戦闘を指揮した古宮政次郎大佐は、死闘の果てに道に迷い、遂には最後を悟り自決した。その時の古宮大佐の遺書が、日本軍将兵の哀しい、力尽きるまで、しかしなお戦ったその姿を私たちに偲ばせている。「・・・多くの将兵を無駄死にさせ、かかる結果を招きたるは慙愧に絶えず。吾人は火力を軽視すべからず。火力充分なれば兵の行動は果敢となり、その気力また充実するも、火力不足なれば消極的にならざるを得ず。魂は万古不滅なり。数日間の疲労激しく、眠たし。本日天命を終わるにあたり悔いなし」。日本軍の武器、特に近代兵器の致命的ともいえる不足が部下たちに苦しい戦いをさせたことを詫びている。古宮大佐は「眠たし」と言って自決した。その思いはこの戦場で果てた多くの将兵のものでもあったろう・・・アメリカ海兵たちも機銃と追撃砲で全力の対抗をした。手榴弾、追撃砲弾の白煙があたりをおおい、銃声と喚声がジャングルにこだました。「日本兵は恐怖という文字を教わらなかったに違いない」と米軍海兵たちは思わず身震いをした。それは「日本兵は、戦友が倒れても、軍刀を振りかざす指揮官が倒れても、いや自分に弾丸が命中してさえも進んできた・・・」というすさまじいものであった。そして米軍の強者(つわもの)強者(つわもの)海兵もこの日本兵の闘志に、「海兵たちもナイフをふるって戦った。夜明けの戦場には、互いに刺し違えた日米兵士の死体が少なくなかった」ほどの闘志で敢然と応えたのである。(児島襄「太平洋戦争」)

 

海軍が陸軍に知らせず始めたこのガダルカナル島の飛行場建設であったが、悲壮の戦いはいつの間にか支援増援を繰り返す陸軍中心の戦争になっていた・・・ (続)

 

(令和2年4月7日)