ゼロからのスタート。

為しえた人物の一人。

少しでも力になれば幸いです。

私の祖父です。


東海税理士会報 第545

2006(平成18)51日寄稿文より


『祖父の人生』

          東海税理士会 小牧支部 小澤 剛



 私が最も敬愛する人物の一人である祖父が一昨年亡くなった。享年八十六だった。ここで、祖父がどのような人生であったか触れていきたい。


 彼は、儒学者・林羅山によって有馬・草津と並ぶ天下の三名泉の一つに数えられた、岐阜県の下呂温泉出身である。

 幼少の頃から人形が好きで、小学生の頃、自作自演の人形の紙芝居を始める。それ以降、その道一筋五十年、「竹原文楽」という人形歌舞伎を完成させた。企画、演出、人形の顔作り、髪結い、衣裳作成、舞台の背景作り、台詞、照明に至るまでの一切を、彼一人で行っていた。

 舞台となった場所は、昭和十三年、地元竹原の宮地公民館で初公演をし、各市町村の社会教育各団体より招聘を受け、日本各地を公演して回っていた。晩年は、当時の下呂町に招かれ、下呂温泉合掌村で公演していた。


 間口十二mの舞台で、体高約三十六㎝の人形を約三百体、数十本の糸を使い、すべてを彼一人で操っていた。

 一㎏の木綿の糸、長さにすると延べ何千mの糸が、一幕一幕終わるたびに切れ落ちていく。毎日三百体の人形の髪を一体ずつ丁寧に、彼一人で結い直す。人形一体に約百二十着必要な着物も、京都西陣の染物屋に百度参りして手に入れた生地を使い、彼一人で着付けをする。

 すべての人形の胸には、生きた命「生命」の文字を書き入れ、「我が人形か、人形が我か」と自分の魂を吹き込み、命を削るような舞台を続けていた。


 舞台の内容については、歌舞伎全般、様々であったが、特に公演回数が多かった舞台の一つに、「野崎参り」が挙げられる。お染と久松の物語が進行し、人形たちが両袖で花笠や絵日傘を回す。舞台は二転三転し、最後は、一斉に人形たちの傘のイルミネーションが灯り、前半の悲しい三角関係の重苦しさを吹き飛ばす。すべての公演の最後は、この豪華絢爛なフィナーレであった。

 いつも、この約一時間の神業妙技の舞台が終わるたびに万雷の拍手を受け、感銘深い公演を観客に提供していた。現在の天皇皇后両陛下、当時の諸大臣、歌舞伎俳優市川猿之助など、様々な文化人が舞台を見に訪れていた。


 私は、物心ついたときから、彼が盲目で公演が続けられなくなる最後の舞台まで、何千回と公演を見てきた幸せ者である。

 いつも心が揺さぶられた。

 いつも飽きることなく、一つも見逃したくない思いで見続けていた。

 そうした華やかな表舞台とは裏腹に、薄暗く狭い舞台裏でシャツ一枚で演じている姿も私は見たことがある。公演中、彼は誰一人舞台裏に入れさせたことはなかったが、唯一最愛の孫である私の我儘は受け入れてくれた。いや、もしかすると私には見て欲しかったのではないかと、今は想像している。

 そこで私の目に焼き付いている彼の姿は、他者が一切入り込む余地のない、ただひたむきで、一生懸命な姿である。

 汚れのない、清く美しい姿だった。


 人間の一生は一度きりだ。

 どんな人生でも一度である。

 ただ、どう生きていくと本物の人生の充足感を得られるかは、祖父の人生を回想すると、公私とも答えは見つけられそうな気持ちになる。