先生は「先に生まれる」と書く。
先に生まれたからには様々な経験を通して自分を成長させ、その経験から得たノウハウを元に子どもたちを上手にリードし合格させてあげたいが、なかなかそうはいかない。
子どもだって生身の人間である。大人の敷いたレールに素直に従う方がむしろ気味が悪いし、所詮我々大人の行動範囲なんて威張れるほど大きくはない。
「子どもたちに教わる」これって、すごく大事なことだと思う。
受験を通じて子どもたちが大きくなっていく過程で、我々も一緒に涙し、感動し、育てられていく。
はたして自分は人に語れる感動秘話をいくつ持っているのであろうか…。
何人合格させただのカリスマ講師だの宣伝しているが、いったいどれだけの感動エピソードを語れるのか…。
きちんと子どもと向き合って、家庭事情を把握し、明らかに「この環境が作れたから合格させられた」と言える体験がどれほどあるのだろうか?
今回から2回に分けて「涙のS君高校受験秘話」をお伝えする。
ご存知の方もいると思うが、私の尊敬する木下先生の著書から引用させていただいた。
既に読んだ方も、もう一度お願いしたい。
私自身10回は読んだが、いまだに涙してしまうくらい強烈なドラマだから。

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■涙のS君高校受験秘話

 私が講師になってまだ間もない頃に出会ったS君の話をしたい。中学3年の夏前、確か6月頃に彼は途中入塾してきた。ちょっと変わったところがあって最初の印象は良くなかった。

 まず、授業のとき机にノートを出さない。宿題を出してもノートにやってこない。数学の問題を解かせるとノートは使わずに、テキストの余白でチョコチョコ計算するので計算ミスばかりする。要するにノートを一切持ってこない。

「ノートはどうした」と尋ねると黙ったままである。

「黙っていたらわからへんやろ!」。まだ私は若かったからつい口調が荒くなる。

「ちゃんと言え、どうしたんやノートは?」
黙っている。

「お前な、先生をナメとんのか」

「いいえ」
ここで初めて口を開いた。

 次からはノートを持ってくるよう約束させ、「わかりました」ということで私はその場を収めた。ところが翌日、やはり持ってこない。
「お前、そうか忘れたんか」
また黙っている。
「明日忘れたらどうなるかわかっているな」と念を押して帰した。でもまた持ってこない。
カーッと頭に来て「そうやって俺に反抗する気やな。よしわかった。先生がノートをやるわ」
500枚くらいあるコピー用紙のワンカートンをバンッと机に投げ出した。

「これで文句ないやろ、これに宿題を書いてこい」

すると「ありがとうございます」と礼を言うのである。拍子抜けして「なんやろ、こいつ」と思ったが、次の日はコピー用紙にちゃんと書いてやってきた。


 しばらくたち暑くなってきた頃、今度はクラスの生徒がS君を何とかしてくれと訴えてきた。「クサイ」というのである。ずっと同じヨレヨレのTシャツとジーパンを着て、それが匂うという。そういえば入塾したときも全く同じ服だった。

「S君、お前な、不潔やろ。ちゃんと着替えてきなさい。キッチリした生活がキッチリした受験生活につながり、合格につながるんや。ところで、どの学校に行きたいねん?」。すると「K学院に行きたい」というのである。このとき初めて彼がどの高校を受けるつもりか知った。

「お前、K学院いうたら難関中の難関やないか。そんな生活態度でどうするんや」

 こう諭したが、けっきょく服装は今までどおりで改まらない。クラスの生徒たちは彼の周囲を空けて座っていた。


■とことん使い込んだ参考書

 そんなこんなで夏前の保護者面談の際、この辺のことをキチンと保護者の方に話しておかなければと考えた。当日はお母さんがやってきた。片手にS君の小さな弟を連れていた。髪の毛は乱れ、着ている服もくたびれてお世辞にもあまりきれいな格好とはいえない。

「いつもお世話になっております」。挨拶するお母さんに、ノートを持ってこないこと、同じ服を着て非常に迷惑がかかっていることなどを説明し「お母さん、これは一体どうしたことなんですか」と私は問いただした。お母さんはポツリポツリと話し出した。

「あの子は小学校のときから、この塾に通って勉強し、K学院に進学したいと言っていました。それがあの子の夢なんです。でも先生、大変申し訳ないのですが、うちにはお金がありません」

 詳しいことはあえて聞かなかったが、夫と死別して経済的に苦しい状況にあるのだという。以来ずっとお母さんは看護士の仕事をし、女の細腕ひとつで子どもを育ててきた。そう聞いて私は何も言えなくなった。

「先生、本当は中学に上がってすぐこちらに来させたかったんです。でもお金がなくて。中3になったら行かせてやると言って我慢させ、2年間ギリギリの倹約をして、やっと貯めたお金で中途だけど入塾させることができました。だからノートもなかなか買えず、迷惑かけて申し訳ありません。息子は先生からコピー用紙をいただいて喜んで使っています。ありがとうございます」

 私は謝った。「すみません」と頭を深く下げ、たぶん1分くらいは上げなかったと思う。S君にも謝った。「ゴメンな、ゴメン、ゴメンやで。俺を許してな。先生は全然知らんかった。けどお前も人が悪い。言ってくれたら良かったのに。そうか、着るのも大変なのか」。

 服が買えないならノートはなおさらである。このような難関校を受けるための塾には裕福な家庭の子が多い。新品の筆記具や文房具をなくしても、すぐ新しいものを買い直すためだれも探そうとしない。そういう落し物が塾にいつもたくさんたまっている。そこで私は落として一ヶ月過ぎたものを全部もらい、S君に用立てた。

「これで頑張れ。ノートも先生が持ってくるからな」。こう言って渡すとS君はとても嬉しそうな顔をする。これが私にはたまらなく嬉しい。

 しかもこの塾で勉強するのが夢だったというくらいだから彼はとても熱心だった。ほかの子は参考書を何種類も買ったりしているが、S君は一冊しか持っていない。その一冊を徹底的に何回も繰り返して勉強するのである。

 だからだんだん紙がまくれ上がっていき、端が何倍にも厚くなる。本がこんなふうになるなんて私は初めて知った。ついには一枚ずつはがれボロボロになる。それを私がセロテープで補強してあげるとまた喜んで使った。


■できるヤツは質問の仕方が違う

 熱心なS君だが、K学院を狙うライバルはみな中1からガッチリ勉強してきた秀才ばかりである。彼は普通の公立中学でしか勉強していないし、それも3年の6月から塾に入った。ライバルたちからは既にかなり水をあけられていて、入塾時の成績はほとんどビリに近い。ついていくのも難しい状態にあった。

しかし授業への意欲はすごく、絶対に授業を休まない。たとえ熱が出て体が辛いときでも必ず出席しテストを受けた。毎日夜遅くまで残り、食い下がるように私にしつこく質問をして帰っていく。

 そんな生徒には私もがぜん熱くなる。若かったことも手伝いかなり入れ込んで、途中からは夕方4時に来るようにさせた。授業は7時からなので、4時からなら3時間ある。そのうち1時間だけは授業の準備もあって抜けるが、2時間は直接教えることができる。彼は喜んでやってきた。

 さらに授業が終わった後は居残りもさせ、11時頃まで指導した。もちろん彼だけの特別指導にしては問題になる。ほかに志願する生徒も交え一緒に頑張った。

 するとだんだん成績があがり、9月終わりの頃のテストでは700人中、何とベスト10に入った。最初の成績を考えると信じがたい伸びである。必死の努力を知っている私は「よう頑張った、よう頑張った」と、まだ入試でもないのに涙を流してしまった。生徒を泣かせるだけではない。私もよく泣く。

 ただしK学院を確実に狙うには、今までやってきた基本レベルの問題集だけでなく、最高水準の参考書を勉強する必要がある。いくら彼のように基本問題で100点を取っても、K学院の入試には歯が立たないのだ。

 しかし新しい参考書を買う余裕がないのを私は知っている。ほかの生徒に対してえこひいきになるからしてはいけないのを重々承知で、今回だけはこっそり最高水準問題集を買って渡すことにした。

「K学院に行くにはこれをやらなアカン。やれるか?」。こう言って手渡したところ、わずか一週間ほどで全部仕上げてきた。それも3回やって「先生、ここがわかりません」と質問まで用意していた。

 できる子というのは質問自体がとても的確である。「この問題はここまで考えて、こうしてやってみたけど、どうしても答えが合わない。ここからここの間にミスがあると思うが、どこが間違っていますか」と聞きに来る。

 そうでない生徒だと最初から「先生、わからない、この問題、難しくてできない」と漠然としている。S君のような質問をされるとこちらとしても熱が入るし教えやすい。考え方の筋道を解説した上で、「こうひねるとこういう問題に変わる。そうしたらここの部分が違ってくるので気をつけなさい」とバリエーションの説明までできて、ますます学力がつく。

 実際、S君はさらに学力をつけ、絶対に合格間違いなし、大丈夫というレベルに到達した。そして年が明け入試の当日がやってきた。


(以下、次号に続く)


さて、S君の入試はどうなったと思いますか?

ここまでの話で既に涙腺が緩んだ方はいますか?

ここまでの感想と次号(本日中にUPします)の予想をお寄せ下さい。

次号は「呆然の結末」というタイトルから話が始まります。