この日は、多賀城政庁跡に散歩に行きました。

 

西の国府大宰府には建物があって賑わっているのに、北の国府多賀城は跡というだけで建物は一つもありません。
 

 

ですが、今はこんなのが建っていて、南大門の再建中なんです。

 

 

2024年は多賀城創建千三百年となるので、多賀城市はこの記念行事を何が何でもやり遂げたいと進めているのです。

 

 

南大門跡の後方には、すでに南大路が出来上がっています。

 

 

南大路の石垣は、奈良時代のそれを再現したようです。

 

 

南大路を進んでいくと、階段です。

 

 

上がりきると、政庁正殿があったところで広々としています。

 

 

振り返るとこんなで、荘厳な雰囲気があります。

 

 

政庁正殿跡です。

 

 

 

建物の基礎石だけが発掘されてここにあります。

 

 

こんな建物があったようです。

 

 

こちらも再建してほしいし、周囲の塀などすべての史跡が再現されたら素晴らしいのに・・・!!!

 

 

【多賀城のWikipediaの解説抜粋】

多賀城(多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている。

奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。

奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。周辺はかつて「潟の世界」が想定されていたが、BP1900~1500年にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。

創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』にある貞観津波の「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の同書には「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほかに「府」あるいは「多賀国府」と記載。

多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定される。この国府のほか鎮守府が置かれ、政庁や食料貯蔵用の倉などを設け、附属寺院が築かれていた。霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。北方の備えとして石巻平野から大崎平野にかけては天平五柵(牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵・不明の1柵)を設置、これらは養老4年(720)、石背国・石城国・陸奥国に三分された陸奥国をふたたび統合し、多賀城という新国府の建設により、弱体化した陸奥国の支配強化を図った。これにより、奈良時代の日本では平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

多賀城跡とその周辺の調査が昭和36年(1961)から開始され、外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860m、築地塀(ついじべい)や柵木列をめぐらせた政庁域が確認された。その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの築地塀で囲んだ区域があり、主要な建物の跡と見られる礎石や柱穴が多数確認され、正殿と考えられた。政庁の南東方向に「多賀城廃寺」(北緯38度17分58秒 東経140度59分53.5秒)、政庁正殿の北側には延喜式内社の多賀神社(六月坂)がある。

多賀城政庁東門跡(北緯38度18分36秒 東経140度59分29.3秒)に隣接して陸奥国百社を祀る陸奥総社宮がある。陸奥国一宮(いちのみや)鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市が築かれ、砂押川の水上交通と東山道の陸上交通が交差する土地として繁栄した。

1966年4月11日、遺跡は国の特別史跡に指定された。その後も発掘調査が進展した結果、多賀城跡一帯とともに多賀城廃寺跡、館前遺跡(北緯38度18分4.5秒 東経140度59分34.5秒)、柏木遺跡(北緯38度17分41秒 東経141度2分20秒)、山王遺跡(北緯38度17分59秒 東経140度58分43.5秒)などを含む範囲が追加指定されている。