『STUDIO VOICE Vol.410』、Maison de F 高橋颯人に関するテクスト
『STUDIO VOICE Vol.410』、Maison de F 高橋颯人に関するテクスト(92~97頁)についての一考察 このテクストに対峙するにあたり、筆者は複雑な心境にある。それは、「読者」としてと「書き手」としての自身に対する二つの側面からそうであると言えよう。 まず、「読み手」として。通常であれば、純粋な「テクスト至上主義」とでもいうスタンスで読めばよい。目の前にある文章だけに集中し、できる限り客観的に評価すれば良いのだ。しかし、今回はそうはいかない。筆者はテクストが取り上げている高橋颯人と知己があり、このテクストの成立過程などを高橋本人から聞いているからである。 例えば、こういうことだ。あるクラシックのCDについて、それを評価するとしよう。端的にCDを聞き、その演奏を論じればよいはずである。ところが、その演奏はライヴ録音で、自分もその演奏を会場で聞いていたとしたら、いつものようにCDを聞いた限りでの評価だけで済むだろうか。しかもその場合、単純に、ライヴを聞いている方がより正しい評価といえるだろうか。そうしたら、いつものようにCDだけを聞いていたら、正しく演奏を評価できないことになってしまう。さらに、演奏家が友人か何かで、一緒に食事した際に、その時の演奏について本人からいろいろ話を聞いていたとしたらどうだろう。情報は多いはずなのに、評価するという点では決して手放しに喜べる状況ではない。虚心坦懐にCDを聞いて評論する方がよいのではないだろうか。というのも、ほとんどのリスナーはというか、評論する上での理念的な「リスナー一般」はCDに刻まれたものだけに対峙するのであって、それ以上でもそれ以下でもないからである。次に「書き手」として。このテクストは高橋本人が書いたわけではない。Komomi Sasakiとクレジットのある人物の手になるものである。タイトルの後、本文に入る前に、書き手の並々ならぬ決意が語られている。「彼の特集をしたい。簡単に口にしたわけではなかった。これは約2か月間、デザイナーの高橋を負った記録」、と。そして、2016年終わりの導入を経て、本年1月29日から時系列順に3月28日まで日付けの入ったテクストが続く。これは、ドキュメントなのか。とすれば、この書き手はノンフィクション作家あるいは伝記作家を念頭に書いているのだろうか。さて、このテクストは高橋について伝えたいのだろうか。それとも彼の服を紹介したいのか。もちろん、両方であろう。ここで再び、クラシックのCDの例を。朝比奈隆という指揮の巨匠がいた。彼の演奏を評価するとき、やはりCDにひたすら耳を傾けるべきか。それとも、彼の伝記を読むべきか(例えば、中丸美繪『オーケストラ、それは我なり』(中公文庫))。筆者の立場は「テクスト至上主義」に近く、また「批評(critique)」を念頭に執筆している。嵐に関する本を書いてきて、いつも思うのは読者が期待するのは嵐に関するエピソードやそこから得られる人生訓のようなものなのだろう、と。しかし、筆者は芸能記者ではなく、そのような事柄を書こうとは思ってもいない。あくまで「嵐」というテクストをどう読むかということ。これが批評である。高橋をめぐるテクストは写真が大半を占める(今回の)『スタジオ・ヴォィス』誌の頁で、文章がもっともヴォリュームを持つ読み応えのあるものとなった。Sasaki氏の筆も高橋への質問や関わったスタイリスト、カメラマンなどとの高橋の対話をふんだんに織り込み、彼の服について高橋自身から語らそうとの意欲に満ちたもので読みごたえがある。ここではテクスト全体の構造について、若干気にかかったことを述べておきたい。まず、この号の雑誌全体のテーマが「VS」〔~対~〕であること。そこで、このテクストのタイトルも「They against them. We against us. I against I.」となっている。おわかりのように、問題は最後の「I」である。 againstは前置詞であるから、その後の名詞は目的格でなければならない。そこで、them、usと前の二文は正しいのだが、最後の文だけ、meではなくIとなっている。文法的に前置詞の後にIを持ってくることはないわけではないが、「非標準」つまり標準英語では扱わない使用法である。この「I」とはおそらく高橋自身のことを指しているのだろう。しかして、その意味は?ところで、この「記録」はアントワープ・シックスの一人、現アントワープ王立学院長で、現役デザイナーとしても活躍しているウォルター・ヴァン・ベイレンドンクに高橋の作品を見てもらうべく、ポートフォリオを作る過程なのだ。「高橋くんとは真逆な印象を受ける」ベイレンドンクに高橋が挑戦する。まさに、「VS」である。しかして、ベイレンドンクからの返事は「批評することはできない」。何故なら、「自分と高橋とのクリエイションがあまりにも違うから」という理由から、と。ただし、掲載されたベイレンドンクの返事を読むとニュアンスが若干違う。ベイレンドンクは言葉を選んで、「批評する上で、僕はふさわしくないとも思う」。「高橋さんの仕事を評価するのは、高橋さんと同じようなクリエイションをしているデザイナーに聞くのがベストだと僕は考えます」、と。ベイレンドンクは印象や感想ではなく、「評価・批評」することの難しさ。さらに、それは誰がすべきかを間違えてはいけない、適任者を見つけるべき、と発言しているのだ。しかし、この「記録」はベイレンドンクに肩透かしはくらったものの、この企画を通して、高橋は実は「自身」と対峙し「VS」、一回り大きくなったのだ、といったストーリーで締めくくられる。「今回のウォルターへの挑戦で、高橋はそういうアイデンティティを手に入れた」。タイトルでagainstの後がIだったのは、meだとagainstの前のIと同じになってしまうから。つまり、againstを挟んで、前のIと後のIは違う。今回の挑戦で高橋が手に入れたのは新たな「I」なのだ。察するにこのような意味なのだろう。筆者が思うに、そうであれば、ベイレンドンクの件はいらなかったのではないか、と。今年からパリで作品を発表し始めたのだから、そのためのポートフォリオ作成の方がよかったのではないだろうか。ベイレンドンクの返事が意外だったとしても、それなら、ベイレンドンクの作品と高橋の作品を提示し、まさしくそのクリエイションの違いを、Sasaki氏が適切に「評価」するか、高橋に語ってもらえばよかったのではないだろうか。いずれにせよ、『スタジオ・ヴォイス』読者一般がベイレンドンクを知っているかは疑問である。それどころか、「アントワープ・シックス」を現在、どれだけの者が知っているだろう。彼らは皆、一九五〇年代終わりの生まれで、上記のアントワープ王立学院の出身で、八十年代後半から九十年代前半に一世を風靡した。しかも、メンバーがマリア・イーからマルタン・マルジェラに代わっている。高橋はマルジェラとドリス・ヴァン・ノッテンがお気に入りのようだ。ちなみに、筆者はダーク・ビッケンバーグが好きで、作品も持っている。ただし、購入したのはやはり九十年代の半ば、すでに二十年以上も前のことである。そして、ノッテンこそ知っているが、ベイレンドンクは存じ上げなかった。ベイレンドンクと対決させるなら、彼について明確にすべきだったと思う。しかも、紙面に限りもあろうから、その件はいらなかったのでは、と思った次第である。結果、このテクストから筆者が学んだのは、ベイレンドンクが言ったように、「批評・評価」は適切に行われるべきであること。特に、日本人は「感想」や「印象」を「批評・評価」と混同する傾向があるので、今回のような齟齬が生じたのではないか。さらに、ポートフォリオ作成の過程をこれだけ綿密に報告して下さったのだから、高橋が一回り成長しました的なお決まりのストーリーではなく、Sasaki氏自身がベイレンドンクに代わって、高橋を「評価」し、今後の課題などを提示されてもよかったと思う。ベイレンドンクが望んでいるのは、高橋にふさわしい「批評」なのだから。