斎藤幸平、『人新世の「資本論」』、(集英社新書2020年)

「反資本主義を説く本がベストセラー『商品』となる矛盾あるいは皮肉」

 

自分の持っている版のカバーからも分かるように話題となった思想書としては久々のベストセラー。

何だか恥ずかしくてすぐ読む気にならなかったが、人の噂も何とかで、熱狂も一段落したようなので読んでみることにしました。

 

すぐに思い浮かんだのは、やはり空前のベストセラーになった浅田彰氏の『構造と力』(勁草書房)。調べると1983年初版とあるから、四十年近く前になるのか。自分にはつい最近のことのように思われるのだが。

共通するのは、両著とも哲学書などと言われているが、浅田氏も斎藤氏も所属は経済学部の教員であること。

いわゆる形而上学や存在論といった哲学なのではなく、斎藤氏の専門にあるように社会思想、とりわけ経済思想の本と考えるのが妥当。

そして、浅田氏の本は副題が「記号論を超えて」であったが、斎藤氏の本に副題をつけるなら、「『構造と力』を超えて」としても良いのではないかと思われます。

以下、その理由など述べながら、この本の問題点を考察してみたいと思います。

 

まず、斎藤氏の本のタイトルにあるように「資本論」はマルクスの著作であり、ソ連崩壊後、マルクス主義、社会主義は資本主義に駆逐されたとの通説があり、それに対し、斎藤氏はマルクスの正しい読解を通してこそ、現在の危機的状況を克服出来ると説くことが意表を突かれたというか、斬新に感じられたことが話題にになった理由でしょう。

実際、ソ連が存在した時代のマルクス主義はマルクス=レーニン主義であり、またマルクス主義の思想面はエンゲルスの主張が反映し、マルクス=エンゲルスの思想と考えるのが妥当でしょう。

マルクス主義が崩壊して、皮肉にも純粋にマルクスのテクストと向き合うことが出来るようになったのです。

斎藤氏は近年進められているマルクスの全集プロジェクトMEGAに自らも携われ、今まで注目されなかった「研究ノート」に『資本論』後のマルクスの思索を跡付け、新しいコミュニズム、「脱成長コミュニズム」を模索していたことを明らかにされました。

これこそが、現在の危機的状況を克服する唯一の道であると言うのです。

確かに単純な進歩的「唯物論的歴史観」はマルクスというよりエンゲルスの考えかと思われます。

 

一方、浅田氏が『構造と力』を発表した1983年、ソ連は存在し、いわゆる東西冷戦の末期にあたります。

ベルリンの壁が破られたのが1989年。ソ連崩壊が1991年。

そして忘れてはならないのが、バブル景気が1986年から1991年と重なっていることです。

そんな新自由主義の幕開けを予感させる時代に書かれた浅田氏の著書は通常、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972年)の解説書などと言われています。

しかし、浅田氏は経済学者ですから、反精神分析に関心があるのではなく、家父長主義的資本主義、さらには全体主義的社会主義、双方を批判するとりわけガタリの主張をどう読み解くかに関心があったのでしょう。

構造とは資本主義、社会主義双方のシステムであり、どんなものであれ、構造に組み込まれてしまえば、力によって支配されてしまう。

社会主義は崩壊しそうだが、資本主義は実体のない貨幣の無限ループ(クラインの壺)でどんどん進化して行くだろう。その動力となっているのが精神分析のいう「欲望」に他ならない、と。

で、浅田氏は固執するパラノではなく、分裂するスキゾを称揚し、資本より速く走れ、逃げろや逃げろ、と「逃走論」を提唱。

 

こうした発想は現在の環境問題を資本主義の発展による技術革新が解決してくれるに違いないとさらなる経済成長を推進する「グリーン・ニューディール」に通じていないでしょうか。

環境破壊より早く技術革新すれば大丈夫、と。

そして、資本より速く走った結果は、「一%の富裕層とエリート層が好き勝手にルールを変えて、自分たちの価値観に合わせて、社会の仕組みや利害を作りあげてしまった」。

つまり、資本より速く走れるのはほんの一部の成功者とエリートのみで、誰もが走り、逃げられるものではない。

 

従って、「脱成長資本主義」などあり得ないのであり、「脱成長コミュニズム」を目指すべきなのだ。資本主義は「欠乏」から成り立っていることは『構造と力』からも明らかであろう。コミュニズムは「ラディカルな潤沢さ」を追求する。それは「コモン」な潤沢さに他ならない。

例えば、新型コロナのワクチンや治療薬を世界全体で「コモン」にするという考え。

その際の要点は売れれば何でもいいという「価値」から「使用価値(有用性)」への価値転換を図ること。商品の質、環境負荷などに考慮することである、と。

 

こうした発想は空想ではない。実際に「合理的でエコロジカルな都市改革の動きが、地方自治体に芽生えつつある」として、「フィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)」を標榜するバルセロナの例が最後に挙げられています。

「協同組合による参加型社会」、「気候正義にかなう経済モデル」が模索、実践され、その「フィアレス・シティ」のネットワークは世界中で七十七の拠点を持つという。

では、どうすれば、私たちも変わることが出来るのか。

それは「三・五%の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わる」という研究結果に従い、「はっきりとしたNOを突きつけること」。「九九%の力を見せつけてやろう」。その動きが大きなうねりとなれば、「資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない」。

そして、「その未来は、本書を読んだあなたが、三・五%のひとりとして加わる決断をするかどうかにかかっている」と締め括られています。

 

「所得階層別・二酸化炭素排出量の割合」の図など具体例、数字を示して、分かりやすく、また読みやすい文章と四百頁近い新書としては二冊分に近い分量ですが、最後まで読み通せる見事な出来に感心しました。

自分も資本主義か社会主義かという二者択一こそ不毛だと思います。「脱成長」にも賛成です。

ただし、「脱成長コミュニズム」にはいくつか疑問があります。二点だけ挙げておきます。 

 

まず、バルセロナの例ですが、バルセロナは元々、カタルーニャがスペインから独立したい訳で、都市の問題というより、「ネイション・ステイト(国民国家)」そのものの在り方が問われているのではないでしょうか。

コミューンは地方都市とすれば、古代ギリシャのような「ポリス(都市国家)」への転換が必要になるのではないでしょうか。

「脱成長コミュニズム」と「国家」との関係の考察が欠如しているのはその実践に翳りが生じるのではないかと思われます。

 

次に、浅田氏は自説の通り、勝ち馬に乗って、学者というより、業界人と一緒に知の巨人たちとのコラボなどを企画実践するプロデューサー的な活躍をされました。

一方、斎藤氏は今後どうなさるのでしょう。

37万部突破とカバーにありますから、本の印税だけで4000万円は収益を得た訳です。

他にメディアへの露出で得る利益を考えれば、その経済効果はさらにあったはずです。

それらは「コモン」なのでしょうか。

私有財産なのでは?

元々、大学の専任教員は自分たち非常勤講師からの搾取の上に成り立っている。

私学の場合、専任の授業のコマ数のノルマはだいたい六コマです。

非常勤講師が六コマ担当して一か月にいくらもらえるか。18万円あれば良い方でしょう。

年収200万円くらいな訳です。

自分が今から三十年前、東洋大学の期限付き専任助手であった頃、年収は700万円くらいでした。

研究費、出張費など経費は別にです。

このようないわば「奴隷労働」の上に成り立っている「大学」という組織に属しながら、何が「脱成長コミュニズム」だろう。

 

「あなたは三・五%に加わる決断をしないのか」というソフトなアジテーションの真意を疑わずにはいられない。これが正直な感想です。