息が入ってくるとき、よく見なさい。
息が上に向かうまえ
それが外向きに変わるまえ
一瞬
または一瞬のなかのごくわずかな瞬間では
呼吸がなされていない。
息が入り、それから、ある地点にきて呼吸が止まる。
それからまた、呼吸が出てゆく。
息が出てゆくと、再び、
一瞬
または一瞬のなかのどこで呼吸が止まる。
それから、呼吸が入ってくる。
息の出入りのまえに、呼吸していない瞬間がある。
その瞬間、何かが可能だ。
呼吸していないときには世界のなかにいないからだ。
いいかね。
呼吸をしていなければ死んでいる。
あなたは静止しているが、死んでいるのだ。
だがその瞬間があまりにも短いため、
それに見入ることはけっしていない。

吸う息は再生誕で、吐く息は死だ。
外へ出る息は死と同義で
内へ入る息は生と同義だ。
人はそれぞれの息で死に、再び生まれる。
その二つのすき間(ギャップ合い間)は非常に短い。
だが、熱心な観察と細心の注意力があれば、
そのすき間を感じ取れるだろう。
そしたら、それ以外には何も必要ではない。
あなたは祝福されている。
あなたは知っている。
それが起こったのだ。



 

呼吸を訓練するのではない。
呼吸はありのままでよい。
なんという単純な技法だろう。
それは実に単純に見える。
真理を知るのにこんな単純な技法でよいのだろうか。
真理を知るとは、不生不滅のもの知ることだ。
つねに変わらずにある永遠の原理を知ることだ。
吐く息や、吸う息なら知ることもできるが、
この二つの息の狭間について、人は何も知らない。

試してごらん。
そうすれば、あなたは核心をつかむだろう。
そして、体得できる。
それは既にそこにある。
自分
または自分の基本的な構造に付け足すようなものは何ひとつない。
一定の〈気づき〉以外はすべて、既にそこにあるのだ。
それではどうすればよいのか。
第一に、入ってくる息に気づくことだ。
見守りなさい。
なにもかも忘れて、
ひたすら入ってくる息ーーその通路そのものーーを見守りなさい。
息が鼻孔に触れるとき、その息を鼻孔で感じる。
それから、息が入る。
充分に意識して息とともに動くのだ。
息とともに下へ、下へ、下へ降りてゆく。
そのとき、息を見失ってはならない。
先へ行きすぎたり、後に遅れたりしないように。
ただ一緒に進むのだ。
いいかね。
先へ進み過ぎてもいけないし
影のように後についてもいけない。
息と同時に進むのだ。
息と意識がひとつにならなければならない。
息と同時に進むのだ。



 

息と意識がひとつにならなければならない。
息が入れば、自分も入る。
そうしてはじめて
二つの息の間にあるポイントをつかめるだろう。
それは簡単なことではない。

息とともに内に入り、息とともに外に出る。
入って、出て、入って、出て・・・・・・。
仏陀は特にこの瞑想を用いようとしたため
これは仏教の瞑想法となった。
仏教用語で、
これは安般守意(アナパナサティ~ヴィパサナの一種)と呼ばれている
仏陀の悟りはこの技法ひとつに基づいていた。

呼吸への〈意識〉、呼吸への〈気づき〉を実修していれば、
ある日突然
知らないうちにその狭間にやってくる。
〈気づく〉が鋭く、深く、強烈になるにつれ
あなたの〈気づき〉が括弧でくくられるにつれて
全世界がその括弧からはずされてしまう。
出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域だ。
突如として、あなたは息をしていないすき間(ギャップ)を感じる。
細心の注意を払って息とともに動いていれば
息のないときに気づかぬわけがない。
不意に、息がないことに気づく。
息の出入りのない瞬間が感じられる。
呼吸は完全に停止している。
その停止のなかにーー「恩恵」がある。
 

      OSHO

 

新瞑想法入門 [発行 瞑想社 178-180p]

 

=OSHO講話によるヴィパサナ・ガイド= 

https://ameblo.jp/ozakusan/entry-12485742329.html

 

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