12月18日はお義母さんの命日

私達の結婚が決まった時
アパートをかりるという旦那を遮り
「一緒に住ませてもらえませんか?」
そうお願いしたのは私。

普通に仲良くなりたかったから
家族になりたかったから

お義母さんもお義父さんも
凄く喜んでくれて、娘として迎えてくれた。

漁師町白浜で生まれ育った2人は
口が悪くて言いたい事は言う。

怒られた事もあったし
「くそばばぁー😠」と思うこともあった。

でも、家族だった。

繁忙期には菜花や花の出荷に、
一緒に夜なべして・・・
暮れになり、はばのり漁が解禁されると、
夜の海にはばのりを取りに行った。
帰って来て、一緒に食べる
鍋焼きうどんは最高だった。
 
「わが分(あなたの分)だよ。」
少ししか手伝ってない私に
ニコニコしながらお金を分けるお義父さん。
「おんもり(たくさん)もらえよ。」
となりで笑うお義母さん。

私が寝込むと
自転車でスーパーに行き、
果物やプリン🍮や飲み物を買ってきて
枕元にいっぱい置いてくれた。

晩年は乳がんの転移で骨のがんと言われ
大好きな畑も海も行けなくなって

それでも、
くわにつかまりながら庭の畑に
落花生を植えようとしたり
庭の草を取ろうとして
転んで起きられなくなってたり

シルバーカーを押しながら
「浜をやーぶ(歩く)のがなぁ💦
海に落としてもらえば潜れべーけんがなぁ〜〜。」

真顔で話すお義母さんに
「ばば、マジ⁉️😳ばば、すげぇー。」と孫たち。

お義母さんは、入院を断り家にいたので
思い出もたくさんあります。

私が留守中のうん○まみれ騒動
旦那と子供たちが必死に掃除して
ベットもきれいにしたと

訪問看護師さんから
「これが在宅なんだなあって思いました。
いい家族で、ソヨさん幸せですね。」

そう報告を受けて
生きていてくれるお義母さんに感謝して
旦那と子供たちに感謝した。

一緒にお風呂に入って
エッセンシャルオイルを塗ってパジャマを着せると
「赤子とおんなじだなぁ。」
そう呟いたお義母さんは寂しそうだったけど、
私はお義母さんを看れて幸せだった。

お義母さんのベットのとなりに、
健太郎と私の布団を並べて敷いて・・・

夜中にトイレ介助しながら
気遣われてるのは、実は私の方だったなぁ

お義母さんは家族を想い、気遣い
最期まで家族と過ごす為に頑張ってくれた。
亡くなる前日まで、
シルバーカーを押して台所へ行き
家族と一緒にご飯を食べて
ポータブルに座って用をたし・・・

小池さんがしてくれるマッサージが大好きで。

行きたかった介護施設の忘年会には
残念ながら行けなかったけど
忘年会を終えて、私が帰宅するまで
じっと頑張ってくれていた。
 
帰宅後、具合が悪いと訴え訪問看護師に連絡し
Dr.に往診してもらい
翌朝、家族全員に見守られて旅立った

私は朝まで、
お義母さんと健太郎の寝顔を交互に眺めていた。
特別な言葉も、気の利いた言葉も
何もかけてあげられなかったけど
かけがえのない時間だった

お義母さん
最期までありがとう。
子供たちも私たち夫婦も、
お義母さんを最期まで看取ったことで
色んな事を感じ、考えました。
したくて出来る経験ではないものね

お義母さん
そよばば、本当にありがとう♡