【すべては本質以外のモノになれない】



現在、僕らは経済活動を通じて何かを得て、

その所有したモノ、成し遂げたコトなどで

自分や人を判断する世界に住んでいるように思います。





でも、人間は

「何かを所有していたり、何かを成し遂げたこと」

で人生が決まる訳でもなく、

死ぬまでの所有物、

成し遂げたコトで評価判断をするために生まれては来ていません。










生物として考えた時、

花は花をただただ、

咲かせます。

となりと比べたり、

いちいち評価判断をしないですよね。









人間は生まれてから「

はいはいできた」

「立った」

「歩いた」

「足し算が出来た」

「漢字を沢山覚えた」

「人の上に立った」

「おカネを沢山稼いだ」・・・・

そういう評価判断の中で生きるうちに

【エゴ】

の世界に入り込んでいきます。





そうなると

隣の家の同じ年の子どもより立つのが早いとか、走るのが早いとか

同期入社の人よりも

多く稼いでいるとか、少ない稼ぎだとか

成功を収めている人と自分を比べたもので

毎日の行動を決めたりだとか・・・












「何かをすること」

は社会において、

他と比べられ、判断されます。






その世界にどっぷりつかってしまったら、

人間本来の本質から外れ、

いつまでたっても満たされない状況に生きることになります。








先ず・・・










人が…、

自らが…、

「存在する」

それだけで目的を達成している事が分からなければ、

何を所有しても、

何を成し遂げても、

虚しさが後からやってくるのです。












本質からそれるから、

虚しさがやってきてしまうわけですね。












人として生まれた能力は、

評価判断されるためにあるのではありません。

ただ、ただ、自らの花を咲かせるために、

自分の心の声に耳を傾けて生きること、

その「存在している」ことに能力を利用するのです。








生れてから、社会に出るまで、

そして社会において、

多くの人が






「自分ではない何者かになりなさい」




「自分以外の何かにならなくては…」





と、教わり、

活動している事が、

みなさんには見えてくるでしょうか?










決して、社会を否定している訳ではなく、

社会の評価判断に対する自分自身の本質から見た答え

が出せているかが大事なのだと思います。






生れる前から、

人間には本質がインプットされています。

運命や生きる目的、

利他共に共存し、

貢献し、

循環する。

そして、

愛を分け与え、

生かされ、

次代にバトンを渡す…




全て、


全て、





インプットされています。








それが、本質と呼ばれるものです。











経済活動に没頭するあまり、経済の作り上げたシステムに何気無く流されるあまり、本質を失いがちにさせるエゴ。

エゴが望む姿が、本当の自分だと思って人生の大半を生きてしまう。偽りの自分で大半を過ごす事も十分にあり得るのです。

本質から外れない生き方…。
自分の存在を感じ、その存在に満足し、自然の中で生かされ、愛を分け与える循環に自らも参加する。
そんなところから、初めて出てくる情熱は、今までの自分が成し得なかった強烈なエネルギーが湧いてくると思います。