【困難から得られるもの】
「音符が音楽になるのは、その間に沈黙があるからだ」
という禅のことわざがあります。
これは“2元性”というものを表現する時に大事な考え方だと、僕は思っているのですが、今週はこの二元性について語る事が多いので投稿します。
もし、この世の中が何もない、真っ白な存在だったら自分が何者か、どこに位置しているか、そんな事も分からない世界となってしまいます。
でも、真っ白に対して、「そうではないモノ」が、存在するから、様々なことが見えてきます。
冒頭の禅のことわざにしても、音がずっと続いている世界に生きていたら、音が無いこと、つまり沈黙が「ある」という事に気付かないという事になります。
もし、良いコトばかりがずっと続く世界に住んでいたら、僕らは「良いコト」という認識すら出来ないというわけです。
いい人ばかりだったら、何をもってして「いい人」なのかもわかりません。
安心ばかりの世界にいたら、何が「安心」かも分からない訳です。
逆に、困難があるからこそ、安心が「ある」という事が見えてくるのです。
このように、対極にあるもの、そのコントラストを捉えて、物事を判断しているのが僕らです。
幸せも、幸せじゃない状態を知っているから、感じられるわけです。
二元性の世界において、不必要なものは存在しないです。
上もあるから、下もある。
上がいいとか、下がわるいとか、そういう考えではない訳です。
自然における「法」では、これに従って、僕ら人間が生きています。
いくら、それを自分が否定をして、自分なりの「法」を作ってみたところで、やはり自然の流れにはかないません。
悪いことばかりをかいつまんで、それが悪いと判断するのではなく、悪いことを通じて「自分が何を得られたか」が大事です。
常に、何か対極のモノやコントラスト、二元性を通じて、自分が何かを得ている事を忘れてしまうと、少しこの世の中は生きづらいようです。
自分が得られるものにフォーカスしてみましょう。

「音符が音楽になるのは、その間に沈黙があるからだ」
という禅のことわざがあります。
これは“2元性”というものを表現する時に大事な考え方だと、僕は思っているのですが、今週はこの二元性について語る事が多いので投稿します。
もし、この世の中が何もない、真っ白な存在だったら自分が何者か、どこに位置しているか、そんな事も分からない世界となってしまいます。
でも、真っ白に対して、「そうではないモノ」が、存在するから、様々なことが見えてきます。
冒頭の禅のことわざにしても、音がずっと続いている世界に生きていたら、音が無いこと、つまり沈黙が「ある」という事に気付かないという事になります。
もし、良いコトばかりがずっと続く世界に住んでいたら、僕らは「良いコト」という認識すら出来ないというわけです。
いい人ばかりだったら、何をもってして「いい人」なのかもわかりません。
安心ばかりの世界にいたら、何が「安心」かも分からない訳です。
逆に、困難があるからこそ、安心が「ある」という事が見えてくるのです。
このように、対極にあるもの、そのコントラストを捉えて、物事を判断しているのが僕らです。
幸せも、幸せじゃない状態を知っているから、感じられるわけです。
二元性の世界において、不必要なものは存在しないです。
上もあるから、下もある。
上がいいとか、下がわるいとか、そういう考えではない訳です。
自然における「法」では、これに従って、僕ら人間が生きています。
いくら、それを自分が否定をして、自分なりの「法」を作ってみたところで、やはり自然の流れにはかないません。
悪いことばかりをかいつまんで、それが悪いと判断するのではなく、悪いことを通じて「自分が何を得られたか」が大事です。
常に、何か対極のモノやコントラスト、二元性を通じて、自分が何かを得ている事を忘れてしまうと、少しこの世の中は生きづらいようです。
自分が得られるものにフォーカスしてみましょう。
