治承・寿永の乱、第45弾です。
これまでの話はこちらから。
今回からはしばらくあの頼朝さんは脇役。甲斐源氏のみなさまが話の中心になります。
頼朝が石橋山の戦い(治承4年〔1180年〕8月23日)で敗れて箱根山中に潜んでいた頃、富士山の北麓でも戦いが行われようとしていました。
駿河国の目代(もくだい)・橘遠茂(たちばな-の-とおもち)、大庭景親(おおば-かげちか)の弟である俣野景久(またの-かげひさ)は連合して、甲斐国へ向けて進軍。これは「以仁王の令旨(もちひと-おう-の-りょうじ)」を伝達されて不穏な動きを見せつつあった甲斐源氏を攻撃するための軍事行動でした。
橘・俣野連合軍は8月24日夜、駿河から甲斐へ入ったあたりの富士山北麓にて野営をいたしました。
ところが、ここでとんだハプニングが起きてしまいます。
なんと持ってきていた100張ほどの弓の弦がネズミに食いちぎられてしまったのです
そして翌25日。
波志田山(はしだ-やま)というところで、甲斐の安田義定(やすだ-よしさだ)、工藤景光(くどう-かげみつ)・行光(ゆきみつ)親子、市河行房(いちかわ-ゆきふさ)の軍勢に遭遇。
すぐに戦いが始まりました。
しかし、橘・俣野連合軍は弓の弦を切られてしまって弓矢が仕えず、太刀を手に取って戦うほかなく、甲斐の軍勢の矢石を防ぐことができません。
一方、甲斐の軍勢も剣刃(けんじん)を免れることはできずに、安田の家人など多くが死傷しましたが、激戦の末、橘・俣野連合軍は敗走、俣野景久はそのまま逐電して行方知れず、橘遠茂も駿河へと逃げ去りました。
これが治承・寿永の乱での戦いの一つ、『吾妻鏡』(治承4年8月25日条)の伝えるところの波志田山の戦いです。
それにしても前日夜にネズミ大活躍で、翌日タイミングよく甲斐の軍勢出現。ふ~ん、ネズミねぇ~
って感じですね。
さて、この波志田山の戦い、色々な疑問点があります。
ちょっと話が長くなってしまうかもですが、お付き合いください
まず1つ目は俣野景久の行動について。
俣野景久は23日夕刻から夜にかけて、石橋山(神奈川県小田原市石橋)で佐奈田義忠(さなだ-よしただ)と死闘を繰り広げており、義忠を討ち取ったのちは義忠から受けた傷が大変痛んだということで、もはや戦に参加することはなかったとはいえ、その翌日夜には富士山北麓で野営をしたことになっています。
でも、これだと石橋山から富士山北麓まではいくつかの峠を越えなければならず、やや距離もあるため時間的に無理があると思われ、石橋山から富士山北麓へ直接向かわずに、橘と合流するために駿河国を経由してからだとすると、時間的な無理に加えて距離的にも難しくなると思われるのです。
また、俣野景久はこの波志田山の戦いの敗戦後、逐電したことになっていますが、この時の情勢はまだ兄・大庭景親が石橋山周辺で頼朝を追い詰めて優位に立っている状況なので、兄のもとへ戻るのが自然ではないかと思われます。景久はこの時に逐電したのではなく、頼朝が鎌倉入府後、大庭方が圧倒的不利な状況となったころの事であると思うのです。
これらのことから推測するに、この波志田山の戦いは石橋山の戦いの直後に行なわれたものではなく、それより前に行なわれていた戦いではないのでしょうか。
つまり、俣野景久はすでに決起していた甲斐源氏を攻撃するために、兄・景親の命で駿河の橘遠茂と連合して甲斐へ侵攻したんですが、波志田山の戦いで敗戦。再び兄のもとに戻って今度は石橋山で頼朝勢と交戦。その後、頼朝が再起を果たし、いよいよ大庭方の形勢がまずくなると西国へと逐電していったと考えた方が自然だと思われるのです。
さらに言えば、『吾妻鏡』では頼朝の正統性を強調したいために、東国において反平家の兵を最初に挙げたのは頼朝であるとして、この甲斐の軍勢の戦を頼朝の挙兵より後に起こったものと編修し、細かい部分で時間的な整合性がとれなくなっていると考えることができるのです。
ちなみに、石橋山にて敗れた頼朝方の武士の中には甲斐方面へ遁れようとした者がいましたが、それはすでに甲斐の武士が以仁王の令旨を奉じて決起していたことを知っていたからではないでしょうか。
そして2つ目。
甲斐の軍勢の中に甲斐源氏の主要メンバーがいない点。
『吾妻鏡』に記されている甲斐の軍勢は、安田義定・工藤景光と行光・市河行房で、この中で甲斐源氏は安田義定だけです。他の武田や板垣、一条などの名前がありません。なぜでしょうか。
治承・寿永の乱において甲斐源氏は安田義定やその子・義資(よしすけ)をはじめとするグループ(安田グループ)と、武田信義(たけだ-のぶよし)やその子たちの一条忠頼(いちじょう-ただより)・板垣兼信(いたがき-かねのぶ)・武田有義(ありよし)・武田信光(のぶみつ)らのグループ(武田グループ)、そして加賀美遠光(かがみ-とおみつ)やその子たちの小笠原長清(おがさわら-ながきよ)・南部光行(なんぶ-みつゆき)らのグループ(加賀美グループ)と3つに分けることができると指摘されています(※)。
※川合康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年 ほか
これを踏まえれば、それぞれのグループの独自性みたいなものが、この時期からすでに見えてきていたのではないでしょうか。
これも推測になってしまうのですが、甲斐源氏は「以仁王の令旨」をめぐってどう対応するのか統一的な意思が定まっていなかったか、そもそも統一的な意思を定めておらず、その中で安田グループは積極的に令旨に応じるグループとして、親交のあった他の在地の武士たちとともに橘・俣野連合軍に挑んでしまったものと捉える見方もできると思います。
そして3つ目。
波志田山(はしだ-やま)の場所が不明である点。
この波志田山の戦いは『平家物語』などには記されておらず『吾妻鏡』にしか記されていないため、『吾妻鏡』だけが頼りとなりますが、波志田山の戦いの場所は記されておらず、前日に橘・俣野連合軍が野営をしたところが「富士北麓」とあるだけです。
しかし、橘・俣野連合軍が野営をしたところから、戦場はそう遠くない場所であろうということで、今現在は富士五湖の一つ・西湖(さい-こ)の南にある足和田山(あしわだ-やま)を波志田山に比定する説が有力になっています。
なお、波志田山は他に愛鷹山(あしたか-やま)や駿河・甲斐国境付近に比定する説もあります。
参考までにこちらの地図を。
この当時駿河から甲斐へ抜ける道は主に3つあり、東から御坂路(みさか-じ/みち)、若彦路(わかひこ-みち)、中道往還(なかみち-おうかん)があったと考えられています。
ただし、江戸時代後期の地誌である『甲斐国志』によれば、中道往還はこの平安時代末期にいう春田路(はるた-みち)と似ていると記されているので、この当時は厳密には中道往還のルートではなく、それにかなり近いルートの道があったのかもしれません。
また、若彦路は富士山周辺のルートがはっきりしなくて、今の静岡県・山梨県県道71号線(富士宮鳴沢線)に近いルート、もしくは今の国道139号線よりやや南を通るルートの2つが考えられ、地図上には2つのルートを示しています。
さて、ここで改めて波志田山の戦いの場所を考えてみると、橘・俣野連合軍はおそらく駿河から春田路(中道往還)を北上していって富士北麓に陣を張ったと思われ、一方の安田義定もあらかじめ彼らの襲来を察知し、甲府盆地になだれ込まれる前に侵攻を食い止めようと若彦路を南下して富士北麓に到達したと思われます。したがって、この波志田山の戦いの場所はやはり足和田山付近と考えるのが妥当なようです。
ということで、今回も長々とお話ししてしまいましたが、ここまでです。
次回は甲斐源氏の主要メンバーが動きますが、出陣した場所は意外な場所でした。
それでは今回もお読みいただきありがとうございました
(参考文献)
上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年
五味文彦・本郷和人編 『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』 吉川弘文館 2007年
関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年
石井進 『日本の歴史7 鎌倉幕府』 中央公論社 1965年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
松平定能 『甲斐国志』巻之四十二
(復刻版 松平定能 『甲斐国志 上』 甲陽図書刊行会 1911年)