千葉氏の参向【治承・寿永の乱 vol.38】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱第38弾になります。

これまでの話はこちらから。

 

 

 

頼朝勢に参加する事になった千葉氏ですが、千葉氏の本拠地がある下総国でも平家の息のかかった勢力がいました。

 

こうした状況に、千葉常胤(ちば-つねたね)の六男である胤頼たねより:後の東胤頼〔とう-たねより〕が父に進言します。

 

「この国の目代(もくだい:国守の代行役は平家方の人物です。われら一族がこぞって、源家のもとへ参陣してしまったら、必ず危害を加えてくることでしょう。ならば先に目代を討ってしまった方がよろしいかと」

 

これを受けて、常胤は早速、胤頼と孫である小太郎成胤(なりたね;加曾利成胤〔かそり-なりたね〕)に命じて目代を襲わせました。

 

しかし、下総国目代もそれなりの勢力を持つ者で、館にて数十人の手勢でもって必死に防戦したため、一筋縄ではいきませんでした。

 

そこで成胤は自分の従者を目代の館の裏手(搦手)へ回らせて、火を放たせました。

 

すると、火は折からの強い北風にあおられて、館はたちまち炎上。

戦うところではなくなった目代の手勢は逃げまどい、やがて目代は胤頼によって討たれました。

 

 

こうして、千葉氏は目代を倒したことで下総国府を制圧、頼朝を迎える準備を整えていきました。しかし、目代だけが下総国の親平家勢力だったわけではありません。ここでもう一つの親平家勢力が千葉氏の前に立ちはだかります。

 

 

そのもう一つの勢力というのは下総藤原氏(しもうさ-ふじわら-し)の勢力で、下総藤原氏の当主は藤原親政(ふじわら-ちかまさ)という人物でした。

 

この親政は、『吾妻鏡』によれば平忠盛(たいら-の-ただもり)の娘婿で、清盛(きよもり)とは義理の兄弟の関係だったといい、また、親政の姉もしくは妹が平重盛たいら-の-しげもり:清盛の嫡男)との間に資盛(すけもり)を生んでいることから、平家とは二重の姻戚関係を結んでいるという家柄でもありました。

 

 

さらに、この親政の祖父・藤原親通(ふじわら-の-ちかみち)はかつて下総守(しもうさ-の-かみ)在任中に、官物未進かんもつ-みしん:税を納めないこと)を理由に千葉氏が持っていた荘園を没収しており、千葉氏にとってはいわば不倶戴天の敵でもあったのです。

 

そんな親政が、粟飯原(あいはら)、金原(かなばら)、原(はら)といった誼を通じている近隣の武士たちを糾合して1000騎の軍勢を催し、千葉氏討伐に動いたのです。なお、この親政の軍勢には千葉氏と同族であるはずの房総平氏出身の武士も参加しており、このことからも当時の下総藤原氏の影響力が大きかったことがうかがわれます。

 

 

一方、千葉氏の軍勢は全軍でも300騎程度だったと思われ、自軍の3倍以上の軍勢を相手に苦戦は必至でした。

 

ところが・・・。

ここで千葉氏に奇跡的なできごとが起こります。

 

常胤の孫・小太郎成胤(なりたね)親政を生け捕って、圧倒的戦力差があったはずの戦に勝利してしまったのです。

 

『吾妻鏡』は千葉氏がどのような方法で勝利したのか、詳しく記していません。しかし、後世に千葉氏が中心となって編まれた平家物語の異本『源平闘諍録(げんぺい-とうじょう-ろく)』に、その時の戦の様子が描かれていて、奇跡的なできごとが起こったことを記しています。

 

ただ・・・。

 

その奇跡的なできごとについては、今ここで当然お話しするべきところなんですが、実はここでこのお話してしまうと、チョット話の筋がおかしくなって、どういうこと?ってなってしまうんです。。。ショボーン

 

なので、近々改めてお話しようと思います。ごめんなさい

 

 

ともあれ、こうして千葉氏は下総国の親平家勢力をほぼ掃討した形となり、頼朝をいつでも迎え入れられる態勢が整いました。そして。

 

治承4年(1180年)9月17日、ついに頼朝が下総国府に到着。

 

千葉氏は常胤をはじめ、胤正たねまさ:常胤の長男)師常もろつね:次男)武石胤成たけし-たねしげ:常胤の三男・胤盛の子)多部田胤信たべた-たねのぶ:四男)国分胤通こくぶ-たねみち:五男)胤頼たねより:六男)、そして加曾利成胤かそり-なりたね:胤正の子、常胤の孫)といった千葉一族総動員で頼朝を出迎え、まずは先の戦で捕らえた藤原親政を御前に引き出してお目にかけたあと、食事を用意してもてなしました。

 

頼朝常胤の歓待に、これからは常胤を父のように思って待遇したいと、大変満足げな様子を見せていたと言います。

 

また、この時、千葉常胤頼朝に一つの贈り物を用意していました。見れば常胤の傍らに一人の若武者が控えています。

 

常胤は言います。

 

「この者を用いてくださいませ。本日の贈り物です」

 

この若武者は源頼隆みなもと-の-よりたか:毛利頼隆とも)という者で、父は頼朝の高祖父(ひいひいじいちゃん)にあたる源義家みなもと-の-よしいえ:八幡太郎)の六男(七男とも)である源義隆(みなもと-の-よしたか)という武士でした。

 

この義隆は、平治の乱にて頼朝の父である源義朝(みなもと-の-よしとも)とともに戦い、比叡山の龍華越(りゅうげごえ)という場所であえなく命を落した、頼朝とは縁の深い河内源氏一門の者だったのです。

 

頼朝は一門の者と知るや、感激し、すぐに常胤よりも上座に頼隆を招きました。

 

頼隆自身は平治の乱の際、まだ生後50日ばかりの赤ん坊でしたが、義朝に加担した一味の者として、永暦元年(1160年)2月、下総国に流されて以来、常胤のもとで養育されてきたということです。

 

つまり、常胤のもとにも、頼朝のように旗頭になれる河内源氏の血を引いた御曹司がいたということになりますね。

 

それにしても、頼隆義家の孫でありながら、義家の玄孫(やしゃご)である義経と同じ歳…。なんか違和感を感じますねニコニコ

 

 

さて、頼朝の軍勢は下総の国府に入った段階で、安房の諸豪族や三浦の一党、それに千葉一族が加わっているため、石橋山で戦った時に比べれば、数倍の軍勢になってはいたんですが、それでもまだ鎌倉へ行くには心細く、その途中の武蔵国むさし-の-くに:今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)には秩父党と呼ばれる大武士団や俗に武蔵七党(むさし-しちとう)と呼ばれる中小の武士団がひしめいていたため、彼らを圧倒するにはさらなる味方を募る必要がありました。

 

とりわけ、頼朝に味方すると表明しているにもかかわらず、いまだに参上してこない上総広常(かずさ-ひろつね)の存在も、頼朝にとっては懸念材料の一つとなっていました。

 

そんな状況に、常胤頼朝にある助言をします。

 

「ここに大幕(陣営を覆う外幕、陣幕)を百帖ばかり引き散らし、白旗を60、70ほどあちこちにお立てなされ。これを見た近隣の者、武蔵国の江戸や葛西といった者たちも皆、たちまち参上してきましょう」

 

そこで頼朝は、常胤の申す通りに多くの大幕を張らせて、白旗をたなびかせてみました。すると、たちまち近隣の武士たちが頼朝がにわかに勢いづいたと、われ先に馳せ参じてきたのです。

 

『平家物語』(延慶本・長門本)によれば、これで頼朝の軍勢の数は6000余騎ほどになったと記しています。

(まぁ、実際の数は、話半分で3000騎、10分の1で600騎、中とって1800騎…。このくらいかこれよりちょっと多い数が妥当な数ではないでしょうか)

 

 

 

では、今回はここまでにしますが、ちょっとここで付け足し。

 

今回、千葉氏の動きをメインにお話ししましたが、この千葉氏が目代と藤原親政と戦った一連の動きは、頼朝のためなどではなく、単に、近隣の諸勢力に圧迫されていた千葉氏が独自に起こした軍事行動(反乱)だったと指摘する先生もおられます。

 

これに今回の話を踏まえれば、河内源氏の御曹司・源頼隆を旗頭として独自に挙兵した見方もできそうです。

(北条時政をはじめとする伊豆の諸豪族が源頼朝を奉じて決起したように)

 

 

それでは最後までお読みいただきありがとうございましたニコニコ

 

 

 

 

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