石橋山の戦い(中編)【治承・寿永の乱 vol.28】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱第28弾ですニコニコ
これまでのお話は
こちらからどうぞルンルン


大庭景親
(おおば-かげちか)北条時政(ほうじょう-ときまさ)とが一通りの言葉争いを交わすと、いよいよ戦いの時は満ちました。

開戦に当たって頼朝が言います。

「相模・武蔵両国の名のある者たちは皆大庭方にいる。中でも大庭景親と俣野景久は名高い武士と聞く。果たしてその者たちと誰に戦わせるべきか」

すると、傍らにいた岡崎義実
(おかざき-よしざね)は前へ進み出て、

「敵一人を恐れて戦わぬ者などおりますでしょうか。親だから言うのではないですが、私の息子である義忠がよろしいかと」

と、自分の息子である佐奈田義忠
(佐奈田与一)(さなだ-よしただ〔さなだ-よいち〕)を推薦しました。

そこで頼朝義実の推薦通り、早速義忠を呼んで先陣を命じることとしました。


かくして先陣の命を受けた義忠は、家の子
(主人と血縁関係がある家来)である佐奈田家安(佐奈田文三)(さなだ-いえやす〔さなだ-ぶんぞう〕)に、

「佐奈田へ戻って、母にも女房にも申せ。『義忠は今日の戦において先陣を切ることとなった。二度と生きて帰ろうとは思わぬ覚悟だ。もし兵衛佐殿が天下を収めたのなら、二人の子供を佐殿のもとへ参らせて、岡崎と佐奈田をそれぞれ継がせ、その後見をしつつ、義忠の後生を弔ってくれ』と伝えてくれ」

と、自分亡き後の佐奈田の家のことを案じて遺言を伝えました。

しかし、家安義忠の傍を離れて今生の別れとなるのはどうにも承服できないとみえて、

「殿を2歳の年より今年25歳になられるまで守り役を務め、その殿が今死ぬとおっしゃるのを見捨てて帰るわけには参りません。それしきのことならば、雑色の三郎丸に申しつければよろしいかと」

と、家安は伝言役を拒み、雑色
ぞうしき:様々な雑用をこなす身分の低い者)の三郎丸にこの旨を伝え、佐奈田へと遣わしました。


こうして覚悟を決めた義忠は17騎の手勢とともに陣頭へ駒を進め、

「三浦大介義明が舎弟、三浦悪四郎義実が嫡男、佐奈田の与一義忠、生年二十五。源氏が世を執ろうとする戦いの先陣である。我と思う者は出てきて戦え!」

こう名乗りを上げると、敵陣へ向かって駆け出しました。

他方、大庭方の武士たちもこの義忠の言葉を聞いて、

「佐奈田はよい敵である。いざ戦え」

と、長尾為宗
長尾新五(ながお-ためむね〔ながお-しんご〕)長尾定景長尾新六(ながお-さだかげ〔ながお-しんろく〕)、八木下の五郎、荻野五郎、曾我の太郎(祐信)、渋屋庄司(重国)、原四郎、瀧口三郎(経俊)稲毛重成稲毛三郎(いなげ-しげなり〔いなげ-さぶろう〕)、久下の権守(直光)、加佐摩(かさま)三郎、広瀬太郎、岡部六野太(忠澄)、熊谷次郎(直実)を始めとして、主だった者73騎が一斉に大声をあげて駆けだしました。


しかし、弓手ゆんで:左手)は海、馬手めて:右手)は山という急峻な地形のうえ、日もすっかり沈んであたりは真っ暗、それに亥の刻(21:00~23:00ごろ)から降り出した激しい雨で、たださえ通りにくい狭い道はますます通りにくくなっていました。

前へ進もうと気持ちは逸ってても思うように進めず、もはや馬の進むように任せるほかありませんでした。


大庭景親は弟である俣野景久
(またの-かげひさ)義忠と戦うよう指示しましたが、景久は言います。

「あまりにも暗くて敵も御方もわからない中で佐奈田と戦えと言われてもなかなかできないであろう」

そこで景親は、

「佐奈田は葦毛の馬に乗っており、肩白の鎧に裾金物を打っていて、白い母衣をかけている。それを目印にして戦え」

と、義忠の出で立ちを細かく伝えると、それを承知した景久はようやく戦場へ駆けだしました。ところが、

「佐奈田の与一はこのあたりにいるはずだが、姿が見えぬということは、すでに戦場を離脱したか」

義忠の確かな居場所を戦場で聞いてやって来たはずなのに、姿が見えません。すると、真横で、

「佐奈田与一義忠ここにあり。我を探すのは誰であるか」

と、返事をする者がいます。


「俣野五郎景久なり」

景久は名乗るや近寄って、その返事をする者を見て見れば、馬は葦毛の馬、鎧には裾金物が打ってあり、まさに景親が言った義忠の出で立ちそのものだったのです。

 

やがて、お互いが敵と認識するや、すぐに馬上から組み合い、押し合いへし合い激しくもみ合っているうちに馬から落ち、上になり下になり、石橋山の急斜面を転げて、もう少しで海というところまで落ちました。

景久は大力の持ち主として知られていましたが、どうしたことか景久がうつぶせの体勢で下になってしまい、起き上がろうとしても上には義忠がしっかり乗っかって起き上がることができませんでした。景久は自身の危機に、

「大庭三郎の舎弟、俣野五郎景久、佐奈田与一に組み付いたぞ!みな続けや続け!」

と応援を求めましたが、急斜面を転げ落ちたせいで、皆が戦っている場所から離れてしまって、すぐに駆けつける者は誰もいません。

やがて大庭方の武士・長尾為宗新五)がやって来ました。

「やや、上が敵か?下が敵か?」

為宗が敵味方見分けがつかぬ様子で問うと、義忠は、

「上が景久だ。間違えるなよ、長尾殿」

と言うと、景久もすかさず、

「下が景久だ。誤るなよ、長尾殿!」

こうして両者は上だ下だ騒ぐものの、為宗は暗さもさることながら、両者の頭が一カ所にあるため、結局どっちがどっちなのかわからずじまいです。

「上が景久で、下が佐奈田だ!」

「上が佐奈田!下が景久!!」

そのうち、景久はしびれを切らし、

「愚かな者だな!鎧の金物を探ればよいものを!」

そして為宗が二人の鎧の引き合わせを探ろうとしたその時、義忠景久の上に乗ったまま足を上げて為宗の胸のあたりを強く蹴って突き放しました。

ふいをつかれた為宗は蹴られるままに2、3m斜面を下ってそこに倒れました。

その隙に義忠は刀を抜いて景久の首を掻こうとするものの、なかなか掻くことができません。刀を持ち上げてかざして見れば、鞘巻の栗形が欠けて鞘ごと抜けてしまっています。そこで義忠が鞘尻を咥えて刀を抜こうとしたその時、今度は為宗の弟である定景義忠のやなぐい
(ストックの矢をこれに差し入れて背負うための武具)のあたりに跳びかかりました。そして兜の天辺(てへん≒てっぺん)の穴に手を入れ、ずずっと引き仰のけさせるとそのまま義忠の首を切りました。


こうして景久はなんとか窮地を脱しましたが、これ以上戦をすることができませんでした。首のあたりが大変痛むのです。触ってみると手が血で濡れてしまうほどです。改めて義忠を見てみれば、鞘尻が1寸(約3cm)ばかり砕けた刀を持っています。景久は思った以上に強い力で鞘の抜けない刀で刺されていたのです。


「俣野五郎景久、佐奈田与一
(義忠)討ち取ったり!」

これを聞いた頼朝方は嘆き悲しみ、大庭方は歓びますます士気が上がりました。

義忠の父である岡崎義実頼朝に、

「与一冠者はすでに討たれたようにございます。これで私は十人の子に先立たれました。かくなる上はせめて君(頼朝)の治める世を見ることが我が願いにございます」

と言うものの、さすがに頼もしかった息子の死は辛く、鎧の袖を涙で濡らしました。

頼朝はそんな義実をあわれげに思い、

「惜しい兵を討たせてしまうことこそ口惜しい。もしこの頼朝がここで命を落とさずに生き長らえるならば、必ず義忠の供養をしよう」

義実を慰めました。


ところで、義忠の傍で戦いたいと戦場に残った家の子である文三家安は、義忠が討たれた場所より尾根を一つ隔てたところで戦っていました。大庭方の稲毛重成家安に、

「主はすでに討たれたぞ。お前は早く逃げれば良かろうよ」

と声をかけましたが、家安は、

「幼少の頃より馬で駆けること、相手に組みついて戦うことは習ってきたが、逃げる事はいまだ知らない。佐奈田殿が討たれたと聞いてますます戦う気力が増すというものよ!」

と、なんと敵八人もの首をとる奮戦をしてみせ、その後討死を遂げたといいます。

 

 

(参考)

『長門本平家物語』巻第十 「石橋合戦の事」

『延慶本平家物語』第二末 「石橋山合戦の事」




さて、今回の話はここまでですが、最後にこちらの絵を。


 

この絵は江戸時代後期~幕末にかけて活躍した絵師、歌川国芳(うたがわ-くによし、1798~1861)が描いた「治承四年八月廿二日夜源平石橋山大合戦佐奈田俣野組討ノ図」というものです。

 

この国芳という人は大胆な構図で、奇抜なアイディアに富んだ、斬新なデザインの絵を描き、この当時はおろか現代でも高い評価をする方がいる人気絵師です。

 

あの東京スカイツリーができた時(2012年)、この国芳の描いた風景画の一つ(東都三ツ股の図)にスカイツリーらしきものが描かれていて、もしかして国芳は預言者だったのか!?なーんて一部の方に騒がれたこともありました。

 

確かにこれが後に書き足されたものでなければ、かなり不可解な建造物が描かれています。まるで大きな電波塔のようで、到底江戸時代にあったとは思えない感じです。

(‟歌川国芳 スカイツリー”でググるとその話題の絵が多くヒットしますよ。やっぱりガセではないかという声も聞かれますが、さぁ果たして・・・ニコニコ

 

 

あ、話を元に戻します。

 

今回の佐奈田与一義忠)と俣野景久の一騎討ちは、治承・寿永の乱(源平合戦)でのいくつかある名勝負の中の一つとなっており、後世に語り継がれるものでした。

 

そうした中で、国芳は「武者絵(むしゃえ)」と呼ばれるジャンルの絵を得意としており、その題材にこの佐奈田義忠俣野景久の一騎討ちを選んで何点か作品を残しています。

 

その他の作品は小田原市のホームページ内で特集されていますので、興味のある方はぜひご覧ください音譜

 

小田原市 | 佐奈田与一と俣野景久

(今回掲載した絵もこちらにあって、もう少し大きく見えますよ)

 

 

さ、もう一度、先ほどの国芳の絵を。

 

 

今度は恐れ多くも加工してしまいましたが、まず一番右のには、佐奈田義忠俣野景久の上に乗っかり、刀を口にくわえつつ、右足を上げています。そして真ん中のでは、義忠に蹴られた長尾為宗(新五)が転げていて、その左には長尾定景(新六)が義忠の様子をうかがっています。さらにその左、で囲った部分では佐奈田家安(文三)が二人の武者を相手に奮闘しています。

 

まさに今回の話が一つの絵になっていて、他にも石橋山の戦いの様々な場面が描かれていますニコニコ

 

 

 

「最後に」って書いてから、絵の紹介でだいぶ長く書いてしまいましたが、今度こそ今回はここまでですほっこりあせる

最後までお読みいただいてありがとうございましたルンルン

 

 

 

 

 

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