頼政の子孫たち | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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見ぬ世の人を友とするぞ。こよなう慰むわざなる。
単なる歴史好きが書いているブログです♪♪

今回はこれまで名前が出てこなかったけど、以仁王の乱で頼政仲綱らとともに命運を共にした子孫たちと、生き残って後世に代を繋いだ子孫たちをまとめて簡単にご紹介しますルンルン

何やら似たような名前が多数登場して混乱してしまうかもしれませんが、おつき合いいただければ幸いですニコニコ


源 宗綱 【みなもと-の-むねつな】〔?~1180年(治承四年)〕

源仲綱の嫡男、源頼政の嫡孫です。『尊卑分脉』によれば、位階は従五位下、官職は肥後守を歴任し、宇治平等院の戦いで祖父・父とともに自害したとあります。


源 仲光 【みなもと-の-なかみつ】〔?~1180年(治承四年)〕

父は先日紹介した源仲家です。源(木曾)義仲は叔父にあたります。『長門本平家物語』によると、宇治平等院の戦いにて頼政や仲綱が自害するまでの間、父とともに平家軍を防いで頼政や仲綱が自害したのを聞き届けたのち、父子ともども自害したことになっています。


源 仲 【みなもと-の-なかむね】〔?~1180年(治承四年)〕

『吾妻鏡』に宇治平等院の戦いで討ち取られた頼政の子息として、仲綱・兼綱とならんで記されている人物です。しかし『尊卑分脉』などには名前が見当たらず、詳しいことはわかっていません。


源 宗頼 【みなもと-の-むねより】〔生没年不詳〕

源頼行の嫡男になりますが、父・頼行が保元二年(1157年)に自害してしまったため、兄弟の政綱や兼綱とともに伯父である頼政の養子となりました。しかし、以仁王の乱で頼政は宗頼を伴わなかったと『玉葉』にありますが、彼がその後も以仁王方に加わらなかったのかどうか定かではありません。


源 政綱(正綱) 【みなもと-の-まさつな】〔生没年不詳〕

父は源頼行ですが、兄弟の宗頼や兼綱と同様、保元二年(1157年)に伯父の頼政の養子となっています。以仁王の乱には兄・宗頼と同様、頼政の園城寺行きには同行していないことが『玉葉』に記されていて、彼もまた以仁王の乱に参戦したのかわかりません。


源 頼兼 【みなもと-の-よりかね】〔生没年不詳〕

源頼政の子ですが、以仁王の乱での動向は不明です。しかし、1183年(寿永2年)源(木曾)義仲が入京したおり大内守護(内裏の警護役)に任命されていることが確認されているので、以仁王の乱では参加しなかったか、参加しても父や他の兄弟たちと命運をともにしなかったと思われます。なお、治承・寿永の乱終結後も捕えられた平重衡を奈良へ護送したり、頼朝の上洛に随伴して東大寺に参詣したり、石見守に任命されたりしたことがわかっているので、鎌倉の御家人としても活躍したようです。


参考までに家系図です。
もう見ただけでイヤになっちゃう方もいるかも・・・。これでも結構省いたつもりなんですけどね(^-^;)

 

摂津源氏系図1(源頼政)

 

この系図は『尊卑分脉』を参考にしましたが、源頼政の養子として仲家・宗頼・政綱は記されてなかったので、付け足しています

 



さて、頼政の一族はすべて命運をともにしたわけでなく、結構生き残った人もいたようです。

その中で、後世に著名な人物を輩出した家系もありました。上の系図にも一応記してありますが、とりわけ有名なのは太田氏大河内(おおこうち)の2氏かと思います。


太田氏は頼政の子・広綱が家祖となる家系で、広綱のひ孫にあたる資国(すけくに)の代に丹波国太田郷(京都府亀岡市)に住んでいたので太田氏を名乗りました。そして丹波国上杉荘(京都府綾部市)の地頭であった上杉重房(うえすぎ-しげふさ)に仕えます。
ちなみに、上杉氏と太田氏の付き合いはこれ以後数百年(戦国時代まで)にわたります。

1252年(建長4年)宗尊親王(むねたか-しんのう)が第6代鎌倉将軍に就任することになると、上杉重房は宗尊親王に従って鎌倉へ下向、資国も重房に従って鎌倉に住み、以後太田氏は東国で活動していくことになります。

そして時代は下って室町時代後期。
太田氏を有名にした名将が現れます。それが太田資長道灌(おおた-すけなが〔どうかん〕)ですキラキラ
 

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道灌は文武両道の名将で、一足早く戦国時代に突入してしまったような関東地方にあって、幾多の戦に参陣、戦功をあげて主君である扇谷上杉定正(おうぎがやつ-うえすぎ-さだまさ)を支えました。また、彼は江戸城を最初に築城した人物としても知られていますおねがい
(一方、道灌は支えていた主君・定正にだまし討ちされるという悲運の武将でもあるんですよ・・・)


そして戦国時代、もう一人有名な武将が太田氏から誕生します。

太田資正三楽斎(おおた-すけまさ〔さんらくさい〕)です。資正は資長(道灌)のひ孫にあたる人物です。

私のこの方に対する印象は“執念の武将”“七転八起の人”という印象で、その生涯を小田原北条氏との戦いに捧げた方でした。

もとは武蔵国の岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)を本拠とし、主家である扇谷上杉氏を助ける形で当時関東で勢力を拡大し始めた小田原北条氏と戦っていましたが、やがて主家が衰亡。それでも資正は小田原北条氏に抵抗し続けました。

1560年(永禄3年)から1561年(永禄4年)にかけて行われた上杉謙信(当時の名前は長尾景虎)の関東出兵にも上杉方として参陣、続く1564年(永禄7年)に当時房総半島で勢力を拡大していた里見氏と北条氏が激突(第二次国府台の戦い)した際にも、里見氏と連携して北条氏に対抗するなど常に反北条の旗色を鮮明にして戦い続けたのです。

しかし、形勢は小田原北条氏の勢いに押される形で徐々に不利になり、ついには資正の子・氏資(うじすけ)の離反もあって岩付城を追われることになってしまいました。

その後、資正は下野国(今のほぼ栃木県)の宇都宮氏に身を寄せたり、常陸国(今の茨城県の大半)佐竹義重に招かれて客将として活躍したりと、常に反北条の武将たちと連携し、さらには豊臣秀吉徳川家康などとも連絡をとって小田原北条氏に対抗し続けました。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際しては宇都宮国綱や佐竹義重らとともに秀吉の陣に参陣。積年の願いであった小田原北条氏の滅亡を見届けるに至って、もう思い残すことはないかのように北条氏滅亡の翌年、70歳で生涯を閉じました。

人生の大半を小田原北条氏との戦いに費やした武将が、その北条氏の滅亡を見た直後にこの世から去る。晩年はもう北条氏打倒の気力だけで生きていたんではないかと感じずにはいられません。


って、太田氏の話が長くなりましたねアセアセ
そろそろ次いきますね。
と、その前に太田氏の家紋を紹介しておきますねニコニコ

 

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はい。こちらの家紋が太田氏の家紋「太田桔梗」です。どうもこの太田氏の出自である摂津源氏は桔梗の紋が好きなようで、他に摂津源氏を出自とする土岐氏も桔梗紋(土岐桔梗)を使っていました。
桔梗紋を使った武将で最も有名なのは明智光秀だと思いますが、彼も土岐氏が出自ですルンルン



さて、頼政の子孫と名乗るもう一つの武家をご紹介します。大河内(おおこうち)氏です。

大河内氏は源兼綱の子・顕綱(あきつな)から始まる氏族で、以仁王の乱で父・兼綱が討死したため、顕綱が母とともに落ち延びるように三河国額田(ぬかた)郡大河内郷(今の愛知県岡崎市)に移り住んだのが最初と言われています。

この大河内氏で著名な人物は江戸時代前期、徳川幕府第三代将軍徳川家光・第四代将軍家綱に仕えた知恵伊豆(ちえいず:知恵者の伊豆守)こと松平信綱(まつだいら-のぶつな)です。

信綱は大河内久綱(おおこうち-ひさつな)の子として生まれましたが、将軍の近くで仕えたいとの思いから、6歳で直参旗本であった叔父の松平正綱の養子となって、9歳で徳川秀忠嫡子・竹千代(のちの3代将軍家光)の小姓として仕えました。

その後、家光のそばに仕えてメキメキ頭角を現し、最終的には武蔵国川越藩主老中首座にまで出世、江戸前期の幕政に深く関与して活躍しました。

特に島原の乱では幕府軍の指揮をとって乱を鎮め、続く慶安事件(由比正雪の乱)明暦の大火(振り袖火事)などの災いを的確に処置し、参勤交代鎖国制度の確立などにも尽力して、江戸前期の政治史は彼抜きでは話せないほどの活躍を見せた方でした。

 

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NHKの時代劇、『柳生十兵衛七番勝負』の松平信綱。西郷輝彦さんが演じています(*^▽^*)



さて、頼政の血筋は後の世まで脈々と受け継がれて、日本史上に何人も登場します。オーバーな言い方かもしれませんが、頼政の血もその後の日本の歴史を動かしました。そしてこの子孫たちの活躍を見ていると、なんとなく頼政に通じるところがあるような気がしてくるのです。

では今回はここまでに。
ちょっと長かったかもしれませんが、最後まで読んでいただきありがとうございましたニコニコ


ところで、この人物紹介シリーズで肝心の源頼政本人の紹介はまだしていませんが、好きな武士の一人だけに後日たっぷりやりたいと思います(笑)

次回は以仁王の乱で散っていったもう一つの武士団、渡辺党の話をしたいと思います音符




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