非情に、ノベルっぽく言えば

この世には2通りのニンゲンしかいない。

裏表を使い分けるニンゲンと、そうでないニンゲン。

実業界では前者でないと生きていけない。

弁護士もそうであり、今時の政治家もそうである。

人心や理屈への賛同を得んがために実態の有無にかかわらず

論理的、効好感的に言葉を駆使する職業的弊害人種たち。


マスゾエが公約でコエタカラカニ言ったことが不可能なことが

ここにいたって明瞭になってきたら、途端に、顔を真っ赤にして

誰がこのポストの大臣に座ったって「できね~もんはできね~」

と、逆切れタンカを切り始めた。


東大卒のアンちゃんでトップ当選していきなり大臣に抜擢されて

意気軒昂だった当初と比ぶれば、今や自らのリップサービス過剰

の尻拭いに、成す術もなく、頓挫、沈没し、他の幹部の苦しい

言い訳めいた援護を楯に、背走の先陣を切っている姿と言おうか。


裁判も、決して正しいから勝つわけではなく、証拠と理屈の整合性が

より理にかなったほうが勝つのである。これってアメリカのディベート

の延長に過ぎないとしか思えず、舌戦の巧者コンテストに思える。


最近では、食料に回していたトーモロコシや大豆をエタノール燃料の

原料として守銭奴ファンドが買いあさるもんだから、食料危機が切迫し

てきたし、京都プロトコル以来、CO2売買取引などどいう新手の先物

取引をイギリスが作り出し、また地球を金で切り売りするオイルマネー

ならぬCO2マネーという市場経済の1ページがヨーロッパを中心に

台頭してきた。なんでも「ゼニ金」の世の中である、と子供たちは強く

実感して見ていることだろう。


これもあれも結局、金のため。政治家も大企業も「金のためなら

何でもするゼッ」ってことを、世界会議を通じ、我々庶民に見せて

いるニュースばかりである。



現代人は自然界にないPCBを創り出し、石油製品で身の回りを

溢れさせるようになって以来、かくの如く、救われがたく、地球もろとも

自滅する以外ないであろうと純粋に絶望的悲観をしてしまうほど

まったくもって死ななきゃ直らない、愚か者に堕してしまった。



「なんでそんな怒ったように大声で言うのヨっ!?」

って罵声を浴びせられたら、「うっ」と本当は二の句が継げない。

それはワタシのハゲアタマに「何でアンタはハゲなのヨっ!?」

って詰問されているようなもんだし、たとえばデブでノロマな人に

「メタボガメっ!」なんて言われたのとおんなじである。


「Aにこうしたなら、おんなじようにBにもこうしてくれると思った」

って勝手に決め付けられても思考の手順やパターンがお互いに

違うのだから、ワタシの思考パターンと行動が、必ずしも

あなたと一致するとは限らない。むしろ違うことのほうが普通だ。


たったこれだけのことだった。たったこれだけのことで

人は大喧嘩を始めるし、何十年の信頼をいっぺんに壊してしまい

かねない場合がある。それは特にどちらかの心が疲弊している時

普段なら笑い話で終わることが、深刻なバトルに進展してしまう。


自慢じゃないが「自分には人より優れたイイところなんてほとんど

ない」と思う。いいものがないと思っている人に「あんたって本当に

いいところが全然ないのネッ!」って追い討ちを掛けられたら

立ち上がる気力もヨスガもワラ一本もなくなって沈没するしかない。


夫婦の些細な喧嘩で、危険な喧嘩とはこういうもんである、いつも。

それは自分自身の変身願望へと変わるきっかけにはなる。

女房の好きなサワダケンジやクサカリマサオのようないい男に

今日から変身するぞっ!な~んてデキモしないことをしようとしたり

コダマキヨシのように知的で物静かな言動で包容力のある人間に

改造するぞ、な~んて自分自身の器ではない借り物をかぶって

「きのうの自分とは違った」自分を演出して見せようなどと

奮闘してみたりする。化けの皮はモチロンすぐ剥がれるが。


かくのごとく

ニンゲンは自分自身の欠点をお恥ずかしながらもさらして生きて

いくしかないし、どんなに一所懸命努力しても自分の人間性を

他の人間性と交換して、性転換でもしてしまうようには人間性を

変えることは容易ではない。その醜いワタシの容貌と体と声と思考

パターンと尽きない欲を、仏教では「業」と言っている。

「バカは死ななきゃなおらない」とモリノイシマツが言われたように

「ワタシの人に嫌われる人間性も、死ななきゃ直らない」ワケだが

19の時「決して死なずに生きてみること」と決めてしまったので

それもかなわない。死なずに、死ぬまで生きてみる、ことに

決めたのだから。嫌われても、疎まれても、、、それが「業」を

もつ者の死ぬまで終わらぬ「修業」だと思っているから。

、、、、生きるってスバラシー!なんぞという刹那的な一瞬も

確かに人生にはあるが、つらく、重く、せつないことのほうが

その何倍も何千倍もイッパイいっぱいあるのである。

ダレニデモ、である

この世にあり得べからぬこと

それはこのワタシたちが「今ここにこの瞬間生きている」こと

そのものである、とは大抵考えも気づきもしない。



63億人なりは、みな、奇跡的にこの現代に生きている実は。

と言うのは、一個人、一人一人のレベルに立った時に

おおげさでもなんでもなく、そのとおりだと思える人も多いのでは。


ニッポンには「一期一会」という言葉があるが、みんな知っては

いるはずだが、その稀有な意味深長さや神業的な言葉だとは

思ってはいないだろう。

実はコレハなかり哲学的に深い。

し、実存的にオオマジメな奥義の言葉である。


卑近に言えば

きのう酒を飲み交わした相手が

きょうは夢幻だったかのようにこの世からいなくなっていたりする。

あるいは、運命的な出会いをし、結縁の家族にも恵まれ

ワレラの一生はまたとないと感激ないい人生だったと言っていた夫婦も、

いつしか老いさらばえゾクゾクとシャレコウベとなって口なしで土に還る。

その墓を「先祖代々」からのお宝と、子孫が累々と守って手を合わす。


あるいはきのうまで赤ん坊でオシメを変えたりお乳を飲ませていた

かわいい子が、今は憎たらしいデブの才走ったガキデカに育っている。



「人生は一期一会」「人生は一瞬」「霧の中の泡の如し」であり

こう語っているワタクシも、明日はいないかもしれない。

いや、いつか必ず、そういう日が来るのである、だれにも。


だから、一瞬一瞬の会話やふれあいや交流は

もう再現できない、またとない「最期」であると古人は喝破していた。



そう思うとあたらめてこの瞬間ここに自分がいることが奇跡と思えてくる。

今は我々は生きていて、人と語り、ふれあい、子育てしているが

明日は露のように消えてなくなるのである。そう考えると

妙に何かがぐっと胸に来て、人間だって7日で一生を終える

ウスバカゲローとなんらかわりがないんだ、7日が70~80年に

なっただけで、生の本質に違いはナイ、と思えてくる。

「そう思うのも」ワタシが「考える葦」の一本として

今この瞬間、生きているから、、、、なのである。






何の因果か

何のお導きか

いや、何かの間違いだっただけか、、、、



兎にも角にも、ワタシたちは老若男女、大小硬軟こきまぜて、

愚息賢息、マルビにセレブ、媚び上手にまいうぇ自己チューまで

あの世にでも、妖界でもなく、宇宙人でも、犬でも猫でも虫でもなく

我々は人として「この世」に生まれ落ちていた。気づいたら、いや、、

別に自分の意思で生まれたくて生まれてきたわけじゃない、、、誰モ。


In fact 実は、、ワタシは、幼い時からタイ~ヘンに悩んできた、

自分とは何者か、何故この親で、何故この家で、何故日本で、

何故この時代だったのか、、、、と。そして

何故生まれ、どう生き、どう逝き、どこへ行くのだろう、、、、

このまま生きるべきなのか、生きてて本当に楽しいのか、、などと。


ところが、そうこうするうちにいつの間にかワタシ個人は半世紀も生き

子供たちがヤマンバおっかけ走りで我らに追いつかんばかりの勢いで

歳をとり始めた。すわっ!このままではあっという間に人間の

最長可能年齢140歳に達し、死んでしまう!

そう気づいたワタシは、もとより備わった人知れない聡明さと

半世紀の間に鍛え上げられた人としてのキャリアと辛酸の数々、

その結果として吐露できる珠玉の言葉や奥義、爺のくりごと、

ひいては「おせっかい」を、ボケと思い込みがまだしもの今のうちに

うちの子たちに、または奇特な後人に、残してあげねばと思ったので

ある。以下は簡潔な、ワタシの悩んできたことへの対処法/考え方。




まず「死」についてである。宮沢賢治が雨ニモ負ケズ。。。の詩中に

≪、、行って、こわがらなくていいと言い≫と書き残したように、第一は

自分の「生の終わり」をいたずらに人は怖がらなうほうがいいということ。



死を「生まれ変わる」とか「霊界」とか「天国地獄」という言葉にまどわさ

れて、考えないことだ。死んでなお生きる、かのように人は錯覚しているが

どうして生まれてきたかさえ覚えていない人が死んでなお生きる、などと

いうことがありえようか。、、、ありえない。と、ワタシは結論付けている。

そ~して生きるに対して「死ぬ」と考えるのではなく「生き終わる」ことを

「死んだ」と過去形で言うのが本来正しいのである、と理論を整理した。


こう考えるとタイヘン気持ちが気楽になり、落ち着いてくる。

「ああ、生きて生きて、やがて、生き終わるのだな誰も、、、もっともだ」



次に、どう生きるか。

これは1億人いれば1億とおりの生き方になる。ケースバイケースだ。

そうならざるえを得ない部分である。一つだけ普遍的に言えることは、

人は一人では本来は生きていけない動物であるということ。一人では

生きている意味がない。誰をも受け入れず孤独で生き続けるには

よっぽど打ち込める創造力を持っている人か、我慢強い精神力の

持ち主、と言うことができると思う。人は誰かと「出遭う」べきである。


では「誰と出遭う」ことができるのか。それは、自分が一番知っている。

「ワタシ」は常に取捨選択している、モノでも人でも。これはちがう、

これはちがう、、、、コレだっ!!、、、というように。ダカラ、出遭う

べき人を人は誰も「ワタシ」自身がジュアストフィット人を捜し当てる。


ここまで生き進むことができたら、あとは人生は「楽ありゃ苦もある」が

なかなか面白い。実務的に子育ても含めて生き出すし、一方で

自分本来の才能、創造力を発揮し始める。極端に言うと家庭を

かまえて人は本来のスタートラインにようやくつける、のであり、

生き方はそこから初めて始まる、といって過言ではない。

その家庭をめちゃくちゃにしてしまうケースがあるが、それは

ワタシがここで書き述べているようなことを、深く考えないで家庭

生活に入ってしまったケースがほとんどではなかったのだろうか?


さて「スタートライン」まで、ようやく話が辿りつけたのできょうは

この辺で。次回この種の話題を語る機会や意欲があれば、今度は

持って生まれた各人各様の「才能と創造」について語ろうと思う。


ワタシは自身のことを「百姓」とか

「百姓Oyaz」と呼んでいるが、実はそんな名称とは似ても似つかない

絶世の美男子にしてアーティスト、、、、な~んて~ことた~勿論ない。

冗談はさておき

別にいつまでも旧態然とした大昔のドン百姓や水のみ百姓のまんまで

甘んずるつもりはない、、、、、、、。

ムロン、農業を志した初志は通したい。

美しい日本の田畑と山野の風景をなくさない為の億兆分の一を担い

その上に、自分の作りたい物を機械貧乏に陥ることなく、できる限り

無農薬で済ませられるならそうする「人としてごく自然な農業」をやり

たいのである。しかし、生活するためにはどうしても現金がいる。で、

花卉栽培を実業として始めたが。、、、儲けをなかなか出せない現実。


赤字を出すために花卉栽培をしているわけではないし、ましてや

資材納入業者や運送会社、市場経営の手助けにボランティアで事業を

続けているわけではないわけだ。なんとかかんとかここまで来た初冬。

起業2年目にして収支+-0までに近づくことができ、黒字にこそなら

ないが、2年目で初期投資をすでにほぼカバーできたという意味では

上出来かもしれない。でも、肝心な、家族の人件費、自分の収入

である「儲け」が残せなければ起業し事業を継続しているイミはない。

だから「儲け」を出せるようになる為に、ワタシはこと花卉部門は

「水のみ百姓」に甘んずるつもりはまったくないのである。農業を

ベンチャーととらえ、既存の考えややり方ではない色々な

方法や切り口、農業らしからぬ発想で、実際に実践して失敗し

ながらも、儲けを残せる方途を懸命にいつも試行錯誤しながら

モガイテいる。


表面だけは、風変わりなそこらにいる百姓オヤズにしか見えない

かもしれない「おっさん」だが、実にその頭の中には

固定観念も、しがらみも、師弟関係も、農協も農業委員会もなく

何者にも縛られない未開拓地に挑む飢えた冒険者がいるのである。

未開の原野に近代文明の利器はない。

なければあるのもので工夫するまでだ。

たとえば野牛がいたら捕まえて飼いならして耕運機代わりに田畑を

耕させる。モチロンそんなものはいないので自分の肉体を牛馬にして

人力一馬力できょうもうない、うなるだけだ。


徒手空拳で、固定観念にとらわれないのが自分の強みだ。

人に笑われようが、時代遅れと嘲笑されようが、鼻で笑われようが

馬耳東風と、気にしない。失うもののない風変わり者の強みだろう。

さあ、風に吹かれていこう。目下、金はないが

風の吹き方一つで、天気さえわかる

そんな嗅覚、臭覚を百姓ノー業家は身につけ始めているから。
ワタシの町の道路はここ数年デコボコ。

市が進める下水道工事の業者が入れ替わり立ち代り

掘ったり埋めたりしている、その結果。


業者はスズキ組だったり山花工業だったりイマイチ建設だったり

今まで聞いたこともない零細、中小の地元企業らしいが各エリアを

ほぼ公平に分担して工事をしているふうに素人には見える。

国も地方自治体も財政再建/行政改革の大号令の御旗のもと

公共工事を減らし続けてきた。それに群がってきた建設関連業者が

食っていけなくなってきた。倒産する企業、廃業する企業も増えてきた。

そんな趨勢の中、「決して必要性が高くない」下水道事業を県と市は

推し進めている。本菅部分は県や市の公共工事予算で行うが

敷地内の配管工事は我々市民が100万も200万も自己負担して

任意で業者を選定し、施工依頼し、金を支払わなければならない。

これって、市民に財政負担させる「新手の」公共工事に思えて仕方が

ない。だって、今までの浄化槽や雑排水の設備で日常生活はまったく

支障なく快適だったのに、オダイカンサマは一方的に下水道工事を

土木建設業者にシゴトを回すためにムリクリ創設して、いきなり

我々貧乏にあえぐ庶民に大金を自己負担させる手に出てきた。

町ぐるみで年に何回かの側溝掃除だって毎年してきたし個人で

雑排水槽の定期点検や清掃を業者に依頼し自己負担しやってきた。

だから町の側溝や雑排水になんら問題はなく、清潔である。なのにも

かかわらず行政が下水道工事を推し進める意図が市民には不明、

不可解だ。下水道工事が各家庭で完了した暁にはより一層側溝は

雨水以外流れない清潔なものとなるらしいが。水道料金は下水道

料金が上乗せされ、倍近くに増えるらしい。これってどう考えても

我々庶民に不必要な工事代金を否応なく負担させておいて建設業者

だけが潤う構図になっているとしか思えない。市はオカネのない人には

「無利子」で下水道工事代金の資金を貸し出す制度まで作っている。

これって明らかに市がこの事業を進めるのが後ろめたい何よりの証拠

と言い切ってしまいたくなるほど、憤懣やるかたない気持ちがする。

わかってるんだガ~?このワークプア時代の庶民の暮らしの貧しさを

行政に携わる市長も、公務員も、、、、、、ったぐ!
ヌカガ某の「黒界」証人喚問要求がかまびすしいが

どんなに彼が厚顔無恥の鉄面皮で、シラをきりつづけようと

すでに「ウソこき」であることは国民の目にはもはや明々白々なだけに

当の本人だけが、まだウソはばれていないかの如き言動を続けること

ピエロのごとし、であり、マヌケも大マヌケで、滑稽千万である。

まったく笑うのもアホらしい、裸のオーサマ、ヌカガさま、だ。


そのヌカガさまは、長年「シェンシェ~シェンシェ~」と言われ続けて

鈍感オヤズになったのか、自分こそはカミサマ仏さまだとでも

思い込んでいるのか、言葉以外の「人の感知する能力」があることを

忘れてしまったらしい。論戦やロジックや詭弁には長けてるのだろう

が、言葉以外にコミュニケーションがとれる「人の能力」を

侮っている。人が、言葉で意思疎通を図っているのはせいぜい

2~3割。あとはそぶりや顔色やその人の置かれた周りの状況

などで2割かたがわかる。その人の人となりを知っている人であれば

過去のデータや癖や傾向から1~2割が類推できる。そうして

我々が犬や猫やその他の動物と相対した時の「直感」「気」「気配」で

その相手が怖がっているか、警戒しているか、好感しているか、欺こう

としているかが、瞬時にわかるように、人には相手のウソをも見抜く

能力が備わっているのである。そこんところがわかってないで

言葉だけでシラをきりとうそうとしている人のなんと多いことか!

武術の試合同様、こちらの弱みを相手に気取られない「強い態度」も

時には有効だが、ことヌカガ某の場合はもはや「ウソ」がばれすぎた

後だけに、こちらの国民観客サイドとしては白々しい一人茶番劇を

またしてもマツオカ某よろしく見せられている気がして、飽き飽きする。


また一人、自業自得でこの国会から、あるいは「世」から

去っていく日は遠くない、と予知してしまう、、、、よ、ね、、、、みんな