公開日: 2020/7/7
タイトル: Freedom House Ambulance Service
ポッドキャスト: 99% Invisible 
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概要: 60~70年代米国ピッツバーグ。黒人が多く貧しいヒル地区は治安が悪く、出身者は"the unemployables (雇用不適合者)”のレッテルを貼られていた。ジョン・ムーン氏もこの悪評のために就職先に恵まれず、病院の用務員として雑用をこなしながら、もっと意義があることをしたいと思っていた。
ある日彼は院内で見かけた二人に目を奪われた。患者に救命処置を施しながらあっという間に通り過ぎていった彼らは医師でも看護師でもなく、制服も病院のものではなかった。胸にはparamedic (救急医療隊員)という見たことのない言葉が書かれていた。何より驚くべきことに、二人は黒人だった。アフロに髭面の若い黒人男性が堂々と医療に携わっていて、周りの職員もそれを受け入れ敬意を払っている。信じられない光景を目の当たりにした彼の目指すべきキャリアは一瞬で決まった。これがFreedom House Ambulance Serviceとの運命的な出会いだった。

EMS (Emergency Medical Service)と呼ばれる現在の救急医療体制が確立される前は、速やかな患者の搬送だけに焦点が置かれており、搬送方法も地域によりまちまちだった。消防が呼ばれることもあれば、葬儀屋が霊柩車を出すこともあった。多くの都市では警察がその役目を担ったが、警察も患者を運ぶだけだった。救急箱、酸素ボンベ、枕、担架等の簡易装備で駆け付け、患者を後部座席に乗せたら警官は2人とも前に乗って発進してしまう。患者の容体が悪化しても気付かないし、そもそも対応できるようなトレーニングは受けていなかった。
このような搬送担当者の救命に関する知識・経験不足に加え、特にヒル地区のような黒人中心の地域では、日頃対立することが多い白人中心の警察を呼ぶことに抵抗があり、またタクシーも治安が悪い地域は避ける傾向にあったため、搬送の選択肢が限られていた。

1966年、救急医療に大きな影響を与える白書が発行された。当時は海外に派遣された衛生兵の技術や知識が活かされておらず、同等の銃創であれば戦地より本国の方が患者が亡くなる可能性が高いような有様だった。不適切な救急サービスにより年間5万人もの救える命が失われている現状を指摘したこの白書は、政府に救急医療体制の確立を急がせた。
その頃ピッツバーグではFreedom Houseという団体が黒人居住地区で移動スーパーのようなサービスを運営していた。医療基金を運営しており、市内の医療格差を憂いていたフィル・ハレン(Phil Hallen)氏は、移動販売ができるなら搬送もできるのではないか、ヒル地区出身者に運転させれば雇用創出にもなるのではないかと目を付けた。大学病院に相談したところ、麻酔科科長ピーター・サファー(Peter Safar)氏を紹介された。サファー氏は現代では心肺蘇生法(CPR)の父とも呼ばれる蘇生の専門家であったが、当時の医療業界では一般人による処置への抵抗が根強かった。Freedom Houseを自身の救急構想を実現する機会ととらえた彼は、高機能の救急車と300時間にも及ぶコースをデザインした。こうして救急に特化した研修を受けたプロのparamedicが生まれた。雇用不適合者が世界初の救急隊員になったのだ。

しかしいくら研修を受け技術を磨いても解決できない問題があった。差別と嫌がらせである。仕事を取られたと感じた警察がFreedom Houseの救急車の派遣を拒否した。無線を傍受して現場に駆け付けても、警察が患者を横取りする。また救急車が動く緊急治療室であることを理解しない患者が処置を嫌がることもあった。特に白人の患者は触られることすら嫌がった。サファー氏やFreedom Houseの取り組みを知らない医師や看護師の間にも同様の差別意識がはびこっていた。

それでもめげずに結果を出し続けたFreedom House Ambulance Serviceは、5台の救急車で年間6,000件もの要請に対応するまでに成長し、全米各地から視察団が訪れた。政府によりEMS標準研修課程の実地検証に任命され、Freedom Houseの研修担当医師ナンシー・キャロライン(Nancy Caroline)氏は教科書の執筆を依頼された。
Freedom Houseの成功は終わりの始まりとなった。彼らが成功するほど白人社会の反感を買った。黒人が白人にない充実した救急サービスを享受するなんて生意気だ、というわけだ。1969年に選出された市長はFreedom Houseの予算を半分削った。救急車のメンテナンスにも事欠くようになり、搬送中にエンジンが火を噴く事故も起きた。彼はさらに苦情を理由に一部地区でのサイレンの使用を禁止する条例を定めた。救急車でドラッグを売っているというような根も葉もない噂も流れた。1975年、ついに市長は市独自の新しい救急サービスの設立を決定し、白人を雇った。キャロライン氏はディレクターに就任する交換条件として、Freedom Houseの隊員を雇い入れるよう交渉したが、雇用継続の保証にはつながらなかった。ムーン氏はピッツバーグEMSの数少ない黒人隊員として2009年まで働いた。
Freedom Houseで培われた技術と経験は米国各地のEMSに受け継がれた。キャロライン氏はイスラエル初のEMSを創立した。しかしFreedom House Ambulance Serviceの歴史を知る人は少ない。


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これも映画化してほしい話のひとつ。

日本の救急隊員は米国のparamedicと対応範囲が違うようなので、日本の救急医療の先駆者たちの話も是非聞いてみたい。調べたところ患者搬送に一石を投じた1966年の白書のタイトルは"Accidental Death and Disability: The Neglected Disease of Modern Society"で、ネットに30周年記念版をスキャンしたPDFがあった。

衛生兵の話が出たところで、以前投稿した葬祭の商業化キャッツアイの普及に関するエピソードを思い出した。戦争の影響や軍で培われた技術が社会に画期的な変化をもたらすことがある。やはり様々な意味で命に関わるアイデアが生まれやすいのだろう。