出雲王家伝承本では、「忌部氏の祖先は徐福の2次渡来集団に属していたらしい。第一次物部東征に従って四国南岸を通ったが、一族は四国各地に住み着いた」(「古事記の編集室」P27)

と書かれている。

また、別の本には、出雲忌部氏は富家の分家、とも書かれている。

 

忌部系図より、

 

八坂刀売命」は安曇氏・忌部氏と密接にかかわる

 

上の系図には、徐福・父・除猛の奥様になられた万幡チジ媛が見える。

(この場合、天児屋根は除猛の事だとわかります)

そして、櫛明玉命とは、賀茂御祖神社で繰り返し出てくる神様でした。

万幡チジ媛の兄弟の天日鷲翔矢命のひ孫に八坂刀売命がいて、建御名方命の妻になったとされています。

 

徐福の世代は天白羽鳥命と思われるので、徐福の孫の世代に、建御名方命がいたという事になります。

年代をあてはめると、BC170~160年頃です。八坂刀売命は、諏訪大社でお祭りされていますので、建御名方命と一緒に諏訪に移動した正妻という事になります。

と、考えると、徐福が渡来してから、出雲に混乱が生じたのは、孫の世代であったと考えられます。徐福渡来から50年位たってから、大国主・事代主の暗殺事件がおきたと思われます。しかし、大国主・事代主の暗殺事件は、先の天穂日の年代系図では、BC90-60年頃の事件のはずです。村雲王朝の成立年代から、それ以上は遡れません。

 

そこで、以下、もう一度対応させてみると、

 

                         

管之八耳 a   (BC270)

 八島篠 b  (BC240)

兄八島士之身a (BC210)  天穂日・徐福渡来・・・・大国主①

文字巧為 b (BC180)

水遣花  a    (BC150)・・・・・・タケミナカタ

臣津野  b   (BC120)

冬衣 a          (BC90)  

事代主/  大国主②b (BC60)  火明・穂屋姫(後漢鏡AD25~) 

櫛入彦  /鳥鳴海      (BC30)     香語山  

天奇日方天日方/国押富     (0)  村雲(神武)

飯肩須見/建沢谷地乃身        (AD30)

建𤭖尻  /𤭖主彦        (AD60)

豊御気主 /田干岸円味        (AD90)

大御気主  /身櫓波        (AD120)

建飯賀田須  / 取成身     (AD150)

大田田根子/建津及身/大科戸蓑 (AD180)  孝元/開化

             /山崎帯 (AD210)   ヒコイマス

             /富大田彦(野身宿祢)(AD240)  道主                                                             

タケミナカタの世代は、文字巧為 bのスクナヒコ(副王)か、または、兄弟の水遣花がオオナムチになったので諏訪に移住した、という可能性があるでしょうか。

 

大国主②は、伝承本来の大国主で、出雲で混乱がおきましたが、その時の原因は徐福本人ではなく、徐福より4・5世代あとの子孫か、または徐福に仮託したい別人・天火明、という事になります。

 

この混乱時代の記載と思われる播磨風土記には、天日明ではなく天目一神が登場していますので、今後、こちらも調べてみたいと思います。

 

参考)

 

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