この三女神の記載は本の続巻になります。

 

p235~

 

三女神は、天三下命とされ、宇佐氏の宇佐津彦に嫁いだ。

 

p241

<宇佐家の伝承によると、イチキシマ姫は、月読(宇佐氏の始祖タカミムスビの八世孫オモイカネ=初代宇佐津彦)と結婚し、初代ウサツヒメとなり、宇佐島で日の神、天照オオミカミをまつった。宇佐国の拠点が安芸国タケリノの宮に移ると、後イチキシマ姫(後ウサツヒメ姫)は、祭祀の場所をタケリノ宮に近い厳島に移した。>

 

→宇佐氏は、卑弥呼・台与の紀元250年頃までは女系だったと思われる(女性が宗主・跡取り)。出雲王家の伝承の、いわゆる卑弥呼は厳島で亡くなったというのは、後イチキシマ姫であると思われます。とすると、いわゆる宗像の3女神のイチキシマ姫は、初代イチキシマ姫(初代ウサツヒメ)であると推測できます。

初代イチキシマ姫は、出雲王家のアタカタスが宇佐氏に入り婿してできた三女神のうちの一柱。(この辺りは、宇佐氏の本には記載がない)うち、2神が出雲王家の男子に、残りの一人のイチキシマ姫は除福に嫁いでいる事になっています。

で、二つの伝承を合わせると、初代ウサツヒコは除福であった、という事になってしまいます。ですが、除福が、<月読(宇佐氏の始祖タカミムスビの八世孫オモイカネ=初代宇佐津彦)>であるかというと、うーん、この辺は違いそうです。出雲王家伝承では、高木神とは、除福の母・チチハタヨロズ神の事としています。除福は北極星を拝んでいましたが、月読とされたかどうかわかりません。

 

 

p243

<宇佐家の伝承では、妻垣神社の鎮座する丘陵は、ウサツヒコの命の墳墓で、その古墳の上にヒメオオカミが、ウサツヒコの妻として祀られた>

 

で、同ページ、

<宇佐神宮ニ之御殿の祭神ヒメオオカミは三女神ではなく、八幡大神すなわち応神天皇の后妃である>

 

としている。

 

で、その前後の概要として(出雲王家伝承を根拠に)まとめると、

 

<宇佐家の伝承では、妻垣神社の鎮座する丘陵は、ウサツヒコの命の墳墓で、その古墳の上にヒメオオカミが、ウサツヒコの妻として祀られた>

→三女神としてのウサツヒメ(イチキシマヒメ=阿田片隅命の娘)は、除福と結婚した。除福は吉野ケ里辺りで没したという出雲の伝承だが、遺体は妻垣神社の鎮座する丘陵に葬られた???

 

 

<宇佐神宮ニ之御殿の祭神ヒメオオカミは三女神ではなく、八幡大神すなわち応神天皇の后妃である>

→後ウサツヒメで、八幡大神(実は中国に使いを出した崇神天皇)の后妃=いわゆる卑弥呼

 

であると推測できます。この後ウサツヒメは、広島の安芸・厳島神社の辺りで亡くなっており(宇佐氏の伝承では後ウサツヒメは神武の妃で、神武より一年早く二人ともこの地で没した事になっています)、卑弥呼はこの地で没したという出雲王家伝承にあたると思われます。

(注:ただし出雲王家伝承では、崇神は宇佐豊姫(後ウサツヒメ)よりかなり前になくなったように記載されていました)

 

月読については、

 

同じく続巻に、

p15~

<宇佐族は、月読命を祖神としてアマツコヨミ(天津暦)・ツキヨミ(月読)・ヒジリ(日知・聖)などと呼ばれて、自然科学・社会科学特に、天文学・気象学・地理学・農学・医学などを、シャマニズムによっておこなってきた日本で最も古い北方系の先住民族であるとする>

<その族長は、男性シャマンをもってする男系族長であり、代々宇佐津彦命を襲名し、祖神の象徴である「月」にウサギがいるという太古からの口伝によって兎狭を氏族の称号として名乗ってきた>

 

→女系の卑弥呼・台与を出した家系とは思えない男性宗族ぶりですね。

 

ですが、

1巻p59

<ウサツヒメが生んだウサツオミは、宇佐氏系図の稚屋と同一人物で、母系の神別から父系の皇別になったと言われている。

 

→ウサツヒメは地神であったが、生んだ子が天皇の血筋だったので皇別を名乗った、という事ですね、女系宗族か男系宗族かはあまり関係がないでしょうか。

 

で、

同巻p58

<ウサツヒメを天種子とメアワセてウサツオミが産まれた。(中臣氏の)天種子は本当は天皇(神武)だったが、この事実ははばかられたので、天種子という人物を創作した。>

 

→この辺りの記載も結構有名ですが、天種子=神武、であり、出雲王家伝承とすり合わせると、

自分の記事天児屋根命 五十猛 辛島氏 <、妻の名前から天児屋根=除猛(除福の父)、天押雲(除福・スサノオ)、天種子(五十猛・除福の連れ子)であるとしました。天種子は、宇佐津姫を娶り、宇佐津臣が生まれました。(一般にこの系譜は中臣氏のもの)>から考察すれば、神武とは、除福の連れ子の五十猛である、という仮説がやはり成り立つかと、、、、。代数でみると、天種子はヒコホホデミでもいいのですが、ヒコホホデミの母はイチキシマ姫であるのですから、母と結婚した事になり変です。代々のウサツヒメがいたように、異なるウサツヒメから生まれたのが、ヒコホホデミとウサツオミであろうかと思います。(当然父も別・除福と五十猛の後裔、とか)

もし、同一とすると、物部氏と中臣氏は日本に来た当初から全く同じ氏族であった事になり、それこそ、系図を別ける必要がないと思われます。天火明とニギハヤヒが同一人物であるにもかかわらず系図が別けられているのは、嫁(妃)が違うからです。

同じ事が、中臣氏の、天押雲ー天種子に言えるかもしれません。

五十猛と思われる人物の結婚が、五十猛の世代だったのかもっと後だったのかはよくわかりません。

月読(宇佐氏の始祖タカミムスビの八世孫オモイカネ=初代宇佐津彦)であるのなら、除福の七世後の世代、もし五十猛であると仮定すれば、その6世後のオモイカネの時に、ウサツヒメと結婚して皇統となり、星神の信仰も導入された、という事でしょうか。

宇佐辺りには、景行紀での直入物部、直入中臣、と2系統の部下がいました。(他に鹿の神)直入物部=宗像、直入中臣=中臣氏で、それぞれ入り婿でできた有力分家、という所でしょうか。

出雲の伝承によって、宗像3女神や物部氏についてはだいたいわかってきましたが、なお、中臣氏については判然としません。。。。勉強中です。

 

月読=オモイカネ=初代ウサツヒコ、であったのなら、<妻垣神社の鎮座する丘陵は、ウサツヒコの命の墳墓>には、中臣氏のオモイカネが眠っている事になり、この人が、宇佐氏に月神の信仰を持ちこんだ、となります。