さてさて、前回の続きです。


まず、忌部氏が邪馬台国であるなら、この一族は骨卜を行っていたはずです。具体的に言うと、鹿占です。


http://web.joumon.jp.net/blog/2009/08/889.html

<<・亀甲を火で焼いて、そこに生じる亀裂によって神意を伺い、神の意志を知る卜占の手法で。古代中国の竜山期に鹿・羊を使う骨卜が現れ、殷代に牛・亀を使った甲卜が盛んに行われた。とくに、亀卜による占いが、国家事業遂行上の大切な指針とされて、漢代にまで及んだ。日本へは、朝鮮半島をへてこの手法が伝播し、古墳時代中期に対馬・壱岐へ、5世紀末から6世紀にかけて中央へ伝えられたと考えられる。ようです。>>



で書いてあるように、骨卜とは具体的には鹿の骨です。

また、亀卜とは亀の甲羅、です。


引用元は同上

<<・卜部氏は、祭祀貴族の一つで、亀の甲羅の内側を使った占い=卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業にしていた氏族で、朝廷に神祇官の宮主など下級職員として、出仕した氏族です。伊豆、壱岐、対馬の三国卜部氏と呼ばれ(実は、武蔵国や常陸国の東国にも勢力があったといわれています。)常陸の卜部は鹿島神宮の祭祀をつかさどっていたということのようです。卜部氏の「卜」とは、占いの意味。
・天児屋根命12世の雷大臣(いかつおおおみ)を祖とする氏族。子孫は後に吉田社系と平野社系などに分かれ代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務めるようになり、その中でも堂上家として残る吉田社系は吉田神道の系譜。(『徒然草』の作者吉田兼好は吉田社系)
・卜部氏の系譜は、「日本の苗字七千傑」 を参照。

・全国に月讀命を祀る社がありますが、その数は少なく、中でも有名なのが、京都洛西、松尾山の松尾大社の摂社として祀られている「葛野坐月讀神社」があります。阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が半島の任那(みまな)に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があったのでこれを天皇に奏上し、顕宗天皇3年(487年)、「山城国葛野郡歌荒樔田」に神領を賜って壱岐の月読神社の神を勧請したとするようです。松尾大社を祀る秦氏の勢力下にあり、この勧請に絡んでいる可能性が高いとのこと。高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)を相殿に祀り、後、中臣氏が祭祀を司ることになります。また、この地は、葛城氏の勢力範囲内であり、別系統とされるが、なんらかの関係がありそうです。高皇産霊尊は、葛城氏の信仰対象でもあります。

・中臣氏は、とくに鹿卜との関連が深く、大和朝廷は、亀卜(きぼく)にたずさわる人々を組織して、対馬・壱岐・伊豆の卜占者を三国卜部として、政治体制に食い込んでいったようです。三国卜部は、11世紀ころには解体したようですが、亀卜の伝統は細々ながらも根強く残ったようです。>>


で書いてあるように、卜部氏(中臣氏)が使ったのは亀卜であります。鹿卜と関係が深く、、、などと上記には書かれておりますが、骨卜に関係ある一族が、何故突然、亀卜の三国卜部を組織するのか、、、、?つまり、中臣氏は言われているような「鹿」(の骨)とはほとんど関係ない、と思われます。関係あるなら「亀」でしょ、と思います。


一方の忌部氏には、


<<はるか遠い昔、「忌部氏」という豪族がいたそうです。忌部氏は、大和政権の成立にも大きな役割を果たしたと云われており、大和政権確立後は、中臣氏とともに宮廷の祭祀を担当していた有力な氏族だったそうです。

 

その諸忌部族の中でも、阿波の国にいた「阿波忌部」は、麻や楫を植え、特に天皇即位時の一代に一度の儀式である「大嘗祭」において、鹿服(あらたえ)と呼ばれる麻の衣を献上する大切な役割を代々担っていたそうです。その鹿服(あらたえ)を貢進していたと言われる神社が忌部神社なのです。 。>>

http://g-y-net.jimdo.com/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%AD%A3%E8%B9%9F%E8%80%83/


「鹿服」・・・・鹿の服ですよ。


参)山崎忌部神社は、延喜式式内大社「忌部神社」に格付けされていた神社で、麻植神と共に天日鷲神ともいわれており、歴代天皇の崇敬を受けていた。
大正天皇の大嘗祭時には、古来の慣習が復活し、木屋平村の三木家作られたアラタエは、境内のアラタエ織殿で織られ、天皇に貢進された。以後、昭和・平成天皇の大嘗祭時にも貢進された。
阿波忌部氏のつくるアラタエがなければ、天皇即位は正式には認められなかったほどのこれは重要物であった。
この貢進は、平安時代以前より行われていたと考えられており、1000年以上の歴史を誇る四国霊場より古くから行われている世界に誇る継承文化であり、世界に紹介すれば、賞賛を得られることは、必至である。 http://takara.ict-tokushima.jp/list/bbsi.php?s=28&b=2679



おっと、鹿つながりで、、、



http://www.kagoshima-w-rc.jp/god/god_10.html

大宮姫

開聞山麗は美女の産地のようだ。日本神話で高千穂に降り立った瓊瓊杵尊が大山祇神の娘、木花咲耶姫を見初めたのが笠沙、綿津見神の娘、豊玉、玉依両姫が知覧、川辺を領有するまでいたのが頴娃と伝わり、それぞれ野間神社〈笠沙〉、豊玉姫神社〈知覧〉、飯倉神社〈川辺〉に祭られている。
枚聞神社の「おかいもんさん」大宮姫もその一人、雌鹿の口から生まれたと謂われる絶世の美女で采女として朝廷に仕えるうち、天智天皇の寵愛を受け中宮としてお側に召されるが、宮中の女官たちの妬みをかいその出生から「姫の足は鹿の足」と罵られ、耐えきれず都を離れ開聞に戻る。
これを知った天智帝は姫恋しさの一念でわずかの供とともに浪速津から船で九州へ、志布志から陸路開聞をめざし、谷山から開聞岳を望み喜び勇んで湯ノ里に入る、喜入、湯豊宿〈指宿〉の地名はこうして生まれたとか。
お二人が再会された場所に揖宿神社が建立され、天智帝はこの地で大宮姫と仲睦まじく暮らされたとか。
また、同様の譚が志布志にもあり、山宮神社、安楽神社縁起によると、この地では開聞の姫君は大宮姫ではなく、玉依姫と称し乙姫という娘をもうけ、帝は「遥か開聞を望むこの地に廟を建てよ」と言い残して大津宮にお帰りになったとある。
山宮神社には樹齢千五百年と謂われる、天智天皇お手植えの大楠がありパワースポットとして人気がある



へえ~、こんな話、初めてききました。

大宮姫とは、一般には、天細女の事で、忌部氏の系統の人です。この氏族が骨卜をしていたのなら、鹿の骨に云われがあると思われ、現に、忌部神社では「鹿服」というのを貢納しているとか、、、。


で、上の姫の話にも、鹿が出てきます。

天智天皇は、現皇室の祖と思われます。現皇室の祖であれば、大宮姫を内宮で祭る権利があります。(しかし、実際に祭っているのは、中臣氏系の荒木田氏なんですよね)


忌部氏、私としては北九州の宇佐あたりと関係があって欲しかったんですが、



http://www.kagoshima-w-rc.jp/god/god_10.html

古代、阿波忌部を中心とした阿波人たちが全国各地に進出、それらの地に阿波の地名を名付けたらしい痕跡を追いました。(略)
中でも、阿波の「長の国」が「那賀」となり、進出先にも付けた「ナカ(ナガ)」の地名が、「那珂」「那賀」として各地に残っています。


~「消滅した郡の一覧」(Wikipedia)から~


 ①明治11年(1878年) 西海道日向国那珂郡 (鹿児島県北那珂郡・南那珂郡に分割)
 那珂郡(なかのこおり・なかぐん)は日向国および宮崎県に存在した郡。

成立当初の那珂郡は現在の宮崎市のうち佐土原・住吉周辺のみの非常に狭い領域。
(現住所に那珂の町名が残る)
1884年に那珂郡は北那珂郡と南那珂郡に分割され消滅。
1896年に北那珂郡は宮崎郡に編入されて消滅。
2009年3月30日(予定)日南市が発足、同日南那珂郡消滅。

地図を見てびっくり。この「那珂」の地、宮崎市「阿波岐原」町のすぐ隣でした。
日向国は7世紀の設立。「日向」の地名は『日本書紀』によれば、景行天皇の命名。
よって、古事記神話の伊邪那岐命による禊祓いの地、
「竺紫日向之橘小門之阿波岐原

は、宮崎県の「日向」のことではない、というのは神話舞台の阿波説だけでなく、北九州説でも主張されています。

では、この「阿波岐原町」の地名は、いつから使われているのか?調べようとしましたが不思議なくらい何も出てきません。
禊祓いの記述に合わせ、近代になって町名を名付けたんんじゃないでしょうか?


 ②1896年2月26日 福岡県御笠郡・席田郡・那珂郡(合併して筑紫郡に)




 1896年3月29日 埼玉県賀美郡・那珂郡(児玉郡に編入)


 1896年4月1日 静岡県那賀郡 (賀茂郡の一部と合併して賀茂郡に)


 1896年4月1日 宮崎県北那珂郡(宮崎郡に編入)


 1899年3月16日 香川県那珂郡・多度郡(合併して仲多度郡に)


 2005年10月1日 島根県那賀郡(金城町・旭町・弥栄村・三隅町が浜田市と合併して浜田市に)


 2006年4月1日 和歌山県那賀郡(岩出町が市制施行して岩出市に)


阿波の「長の国」と、「那珂」「那賀」の地と、「出雲」と「阿波忌部」のつながりは、明白となりました。



うーん、難しい。


九州・筑紫の那珂、と、豊前の中臣郷は、どういう特徴的な違いがあるのだろうか?