平成デジタル世代から「わからない」の美まで*価値観再生道場:本当の大人の作法 | 019|まる・いち・きゅう

019|まる・いち・きゅう

丸い地球をまわりながら考えていることの記録

内田樹・名越康文・橋口いくよの対談「価値観再生道場:本当の大人の作法」を読んだ。読みながら色々な考え事が溢れ出てきてしまったので書き留めておこうと思う。以下平成デジタル世代に関しては一般化しすぎているところや断定的・否定的に語りすぎているところもあるがそのあたりは適当に読んでいただきたい。本の中で印象に残った文章を引用しながら自分の考え事を交えた。

内田:豊かさってお金があるってことじゃないよね。人とつながっているっていうことでしょう。自分が何かして、それに対していろいろな人からいろいろなかたちのリアクションが返ってくる、そういう関係の中にいるのが豊かさということだと思うんだよ。もっと短く言うと、何かちょっとした気づかいをした時に、「ありがとう」という言葉が返ってくるということだと思う。自分がいることで喜んでいる人がいる。つきるところ、その実感じゃないの、豊かさの実質って。
(Uchida et al. 2013:34-35)

名越:そういう意味でも、やっぱり新しい豊かさっていうのは「空間と仲良くする」ことでしょう。
(…)
(Uchida et al. 2013:35)

デジタルな世の中なんだけど(というか、だからこそ?)、真の豊かさは「空間とのハーモニー」にあるというのは、とてもしっくりくる。ひとところにあまり長く滞在することのなくなってしまった昨今、自分でもそれを実感することが多い。メールやFacebookで人とつながっていることを実感するのはとても嬉しいしちょっとした幸せのみなもとになる。でも、物理的に空間を共有する人とつながれたという実感はそれにまさる。その土地・その文化に自分がなじんでいるとやっとこそ感じられたときも。あぁーここにも私の居場所がある、ここにいていいんだと思える。

橋口:今、あらゆる日本の歌詞から二人称や情景描写が消えてきているのってどうしてなんでしょう。
内田:生活感のある普通名詞もなくなったよ。バスとか駅とか、アイロンとかさ。(…)
内田:どんどん抽象的になってるんだよね。   (…)  
内田:1970年代頃まではそういう具体的な地名や店の名前まで歌い込まれていて、実際にその場所が「歌枕」になるっていうことがあった。「ああ、ここがあの有名な山手のドルフィンか」って。  
名越:でも今は入らない。皆バーチャルの世界でつながっているから。  (…)  
内田:土地ってほんとに大事だよ。土地って動かないし、ひとつしかないからね。そことつながりを持てると、足下がしっかりしてくるんだよ。  
(Uchida et al. 2013:69-73)

私たちは多くの人とつながることに囚われすぎている世代なのかもしれない。普遍的な、誰にでも共通するものを求めすぎて、しっかりとした絆を築きづらいくなっているのだろうか。バーチャルの世界でつながっていることはつながっているのだけど、そのつながりの根っこはしっかりしているのだろうか。Facebookの誕生日を表示させないという選択があるのに、Facebookなしに自分の誕生日を覚えてくれている人がどれだけいるか怖くて表示させないという潔い選択がなかなかできないこの感覚。こういう関係が、平成デジタル世代の人間関係なのだろうか。

知人に小学生の子どもを山村留学に出した人がいるのだけれど、彼女がその子の留学先の南佐久郡北相木村を訪問した際のつぶやきを読んでいると地とのつながりを五感で感じているその感じがいいな、と思う。

さて、平成デジタル世代の話を少し続けると、知識のありかたと、知性を備えた落ち着きを身につけにくいのも平成デジタル世代かもしれないと思う。

内田:すごい人の文章っていうのは、止める場所が見つからないんだよね。 
名越:それにずーっとついていくと、その忍耐力と読解力の錬磨によってどんどん自分の中の未熟な攻撃性がおさまって、成熟されてきて。 
内田:読んでいるうちに、リテラシーがあがってゆくんだよ。 
名越:そのうち安易には怒れないぐらいの知性をもってしまって、結果、揚げ足もとらないし、怒らない人になる。そうすると周りの人からも信頼され始めて「ああ、人間のこと、けっこう信じていいんだ」みたいなことを思える人生になる、と。 
内田:飲み込んだ文章って、自分は気がついてなくても、そうやってだんだんだんだん、血肉化していくから。(…) 
名越:(…)もっと別のかたちで言うと、「知性は贅肉のようについてくる」ってことです。
(Uchida et al. 2013:104-105)

断片的な情報に慣れているデジタル世代は、なかなか全体像を把握するのが不得意な気がする。それと、いつでも気軽に情報が手に入る時代を生きる平成デジタル世代は、その場で理解できない情報を受け容れにくいのかもしれない。その結果、結論を先走って腹を立てたり、人の揚げ足をとったりするようになる。その言葉を生み出した背景だったり、文章の前後関係を落ち着いてじっくり吟味するのが今のライフスタイルにはあっていないのだろうか。私もこの点まだまだ訓練が足りないが、イギリスの大学で「ひたすら読んで論文を書き続けた」時間は、そういう力を少しだけだけど養うきっかけになったと思う。この人は一体何が言いたかったのか。「言いたいことがわからないんだよ!」と腹を立てることが許されないかこの偉大な知識人たちの文章と、静かに、忍耐強く向き合い、私なりの解釈を導きだす。ひたすらこの作業を続けた3年間だった。

もう一つ最近違和感を感じているのは「わかりあって仲良しこよし」が人類愛であるみたいな、グローバル人材の定義。世界の人とコミュニケーションができて、ある程度他文化に対する理解もあって、自分のやり方を世界レベルで通用させていける人。そんな人がグローバル人材としてもてはやされるなか、「わからない」ことを前提とした「敬意」がどんな人間関係においても根幹にあるべきだというのはとっても痛快な議論。

内田:人は共感や理解の上に、関係を築いてはいけないんだよ。共感ではなく違和感。理解ではなく謎。共感できないけど「なんでこの人はこういうふうに考えるんだろう」って思う気持ちが「敬意」だから。好きな相手に対して「君のことをもっと知りたい」っていうのは最も深い敬意ある言葉でしょう。「おまえのことはわかったよ」っていう言葉には敬意はもうないもの。  (Uchida et al. 2013:180)

私にとってグローバル人とは違いを受け止められる人。相手がある程度ありのままであることを許してあげられる人。自分は全てがわかっているという上から目線ではなく、常に「わからない」を掲げて学ぶ姿勢を保ち続けられる素敵な人たち。そういうグローバル人の定義で世の中を見直してみると、真のグローバル人なんてそうそういない。

橋口さんの「表通りしかない、この世界で」というあとがきの抜粋で今日の散文を終えたい。

人は相手のことがわからないから尊敬することができるし、わからないからこそ人の話を聞くのだし、わからないから一生懸命話す。わからないからこそ、わかりたくなるし、わかるのが楽しい。その「わからない」という枠を広げていくことが、この世界に対する敬意であり、枠がどんなに広がろうとも、あなたはそこであなたの正しいと思うことを語っていいんですよという事実。そしてひとたび気づいてしまえば、その枠は広がる続けてゆくのだということを、私は今も日々体感している。
 (Uchida et al. 2013:183-184)