私は学生時代から
自分が本当にやりたいことをやって、ウキウキワクワクしながら働きたい!!
と強く思っていました。
 
 
 
「やりたいこと」の青写真を描き、それをすることを目標に頑張っていましたが、
やっとの思いで手に入れかけていた時、『これは私が本当に求めているものではない』と悟りました。
なぜなら、あとは自分が実際に動くだけという状況で、動こうとしない自分に気付いたから。
ウキウキワクワク、豊かさが溢れる感覚もなかったから。
 
 
この感覚は何なのか?
私はどこを踏み間違えたのか??
 
 
時間をかけて自問して気付いたのは、
私が夢だと思っていたものは、私の「評価目線」が作った幻だったということ。大きなショックを受けました。
そんな「幻」を追いかけて築いたこれまでのキャリアが無駄だったように思え、不意に後悔に襲われて、重い気分になっていました。
 
 
でも最近、なんだかとても前向きになって、その過去の自分も選択も全肯定で受け止められるようになりました。
 
 
なんで平気になったのかな??
と振り返った時に自分のなかで感覚的にキャッチしているものがありましたので、今回はそれを言葉にします。
 
 
 
「評価目線」の仕事選びで、自分の本心の豊かさをつかみ損ね、
そんな過去に後悔を感じる方に、何かヒントになれば幸いです。
 
 
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私は子どもの頃、
 
 
カレーは辛口を食べたがっていました。
 
本当は、辛いのが苦手なのに。
 
 
 
ラーメンは大盛りを頼んでいました。
 
普通盛りがちょうどいい量なのに。
 
 
 
辛口や大盛りを食べたら、すごーい!と言われるから。
親や周りから褒められたくて、そうしていました。
 
 
 
くだらないのだけど(笑)、
意外とこういうこと、やってしまうものです。
 
 
 
 
親に褒められるから、やる
世間に認められるから、やる
尊敬する人に評価されるから、やる
好きな人に愛されるから、やる
 
 
 
 
こうした選択が悪いわけではないのだけど、周りの評価ありきで自分の存在を確立させると、その評価軸が変わった時に自分を変えなきゃいけないし、評価自体が無くなった時に、自力で立っていられなくなる。
 
 
これまでの地の時代はまだ良かったかもしれないけど、ピラミッド型社会が崩れてきたこれからの時代は、評価そのものが不安定なものになるので、生きづらくなると予想されます。
 
 
 
そして何より!
 
 
 
「評価目線」の評価とは、良し悪しのジャッジをつけること。
「良し」を導くべく意識を使い、行動するので、自分の好き・嫌いの感覚を蔑ろにしてしまい、自分の感覚としての満足は得にくいのです。
 
 
 
「甘口のカレー」「普通盛りラーメン」のように、感覚的な自分の好みに合うものを選べば、誰に褒められなくても自分で勝手に満足できるのに、「辛口」「大盛」にして感覚的な満足度を落としてしまっている。
 
 
 
 
一回の食事のメニュー選択の話なら、評価目線の選択をしたことにも気付きやすいし(食べる、ってまさに感じることだから)
次の食事で、すぐにやり直しがきく。
 
 
 
だけど、
 
 
 
仕事選びで無意識にこれをやってしまうと
気づくことにも修正にも、時間と労力がかかる。
 
 
 
私の場合、
自分で描いていた夢があって、それをやっとの思いで手に入れかけていた時、『これは私が本当に求めているものではない』と悟りました。
 
  
そして、そこから数年の時差を経て、
 
 
『正しい人でありたい』という自分の願望から、幻の「夢」を作り上げていたことがわかってきました。
 
 
 
言い換えると、自分自身からの評価が欲しくて、その仕事をしていたのです(絶望)
 
 
 
【正しいことをしている自分】が好きだった。
 
 
「正しさ」は自分の中の勝手な基準であり、評価目線の塊です。
評価目線で◎になることを求めていたので、
感覚的な、『好き』『楽しい』もあまりなく、ウキウキワクワク、豊かさが溢れる感覚がなかったのです。
 
 
 
ウキウキワクワク、豊かさが溢れる感覚を求めていたはずなのに!!!!
 
 
 
これに気付いた時は、結構ショックでした。
 
 
私は何をやってきたんだろう?
「幻」を追いかけて築いたこれまでのキャリアが無駄だった、間違いだった、嘘だったと思え、
これまでかけてきた時間がすべて否定される感覚に陥りました。
 
 
久々に食べたフォー、美味しかった!!
 
 
 
でもある時、ふと気づきました。
 
 
100%評価目線だったわけでもないよね??
 
もっと細かく、ちゃんと明らめたら、自分の好みも確かにあったよね???
 
と。
 
 
 
・辛いのが苦手なのに、辛口を食べたがる
・普通盛がちょうどいいのに、大盛りを注文する
 
 
この選択は、『嘘』でも、『間違い』でもなかった。
 
辛口のカレーや大盛りのラーメンを選んだ理由は、褒められるから、だけではなかった
 
 
私が、褒められるとわかっていても嫌いな人参は食べなかったように、褒められてもしないことはある。
 
 
 
カレーは好きだった。
そして、
辛口を食べることができた。
 
 
ラーメンは好きだった。
そして、
大盛りを食べることができた。
 
 
自分ができたし、そのメニュー自体を好きだったからやっていた。
強烈に我慢してたわけでもないし、大きな苦しみを味わったわけでもない。
 
 
だから、その選択を選んでいたのです。
 
 
もちろん、カレーは甘口の方がより美味しく食べられるし、ラーメンは普通の方が美味しく食べられ、食後も気持ちよく過ごせる。
という確かな事実はありますが。
(辛口や大盛りで褒めらなくてもいいと思えた時から、それらをやめ、甘口、普通盛りにして美味しく食べられるようになったんですよね。笑)
 
 
 
 
つまり、この例からわかるのは、
 
 
辛口、大盛りを選んだ私は、『評価目線』に振り回されていたけど、嘘の選択、間違った選択をしていたわけでない。
「評価を得ること」を含めた、いくつもの好みが重なって、自ら、その時点でのベストな選択をしていたのです。
 
 そして、
 
『評価目線』を取っ払い、感覚的に気持ち良いこと・好きなことを純粋に選んだら、自分の満足度は上がる。
 
こういうこと。
 
 
 
 
 
仕事についても同じで。
 
 
少し前までは、正しさという評価にこだわった自分を悔み、『振り出しに戻って、ゼロからのやり直しかー!』と思ってたのだけど、それこそ違いました。
 
 
見直すべきは、『評価が欲しくてやっていた』ということだけでいい。
 
 
極端に振れないで!
 
 
自分が選んだ業界・職種は、本当に『評価目線』だけだろうか??
そこをよーく掘り下げると、
好み、親和性など・・・それぞれに、純粋に自分の感覚が反応している部分がありました。
そして、その業務をできる能力も、ありました。
 
 
 
心からの満足ではないけど、それほど苦しくなく、まあまあ、それなりに楽しくできていました。
その事実の認識が大事でした。
 
 
そして、その時に感じたことをよーく見ると、評価目線や不要な設定に紛れて、私が無意識的に惹かれていたものが明らかになってきました。
 
 
それは、学生の頃からずっーと変わらず、今も大切に抱えている「本質的な願い」
 
 
 
私の場合は、これでした。
 
・個がそれぞれに輝く世界を見たい
・自然環境や、人と調和していたい
・共に生きる、を感じたい
 
 
評価目線や無意識の設定をとことん外したら、ずっと変わらない「本質的な願い」にたどり着く。
 
 
 
 
 
 
過去の自分、過去の経験を否定しなくていい。
 
その時に感じたことは全部、自分らしく生きるためのヒントなんだ。
 
要らないものに気付いたら、手放すだけ。
 
大丈夫だから、
 
本質の願いにまっすぐに、そのまま進もう。
 
 
 
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