小河原美以 『ちゃんと泣ける子に育てよう 親には子どもの感情を育てる義務がある』
子どもたちが起こした常識では考えられない事件をニュースで知るとき、
あなたは他人事のように、「しつけが悪いのでは?」「うちは大丈夫」と思ってませんか??
でもそれが、子どもを愛し、一生懸命に子育てをしている親の家庭の中で起こっているとしたら??
思いやりのある子、優しい子に育ってほしいと願えば願うほど、
子どもたちは感情をコントロールできない子どもに育ってしまう。
それが、今の時代の子育ての現実なのです。
著者は、副題の通り、「親には子どもの感情を育てる義務がある」として、
それはどういうことか?また、いかにして子どもの感情を育てることができるのか?を説いています。
本には、架空の人物として、子どもを愛する親たちが登場し、筆者との対話形式で、感情を育てることについて学んでいきます。
リアルの子育ての現場に軸足を置きながら、論理や具体的方法を少しずつ混ぜ込んで少しずつ理解を促してくれるているで、
全体を通してメッセージを受け取れる仕様になっています。
「感情を育てること」に懐疑的な人にも、理論はわかるけど実践がわからないという人にも理解しやすい1冊です。
私の中での、重要ポイントを3点あげます。
①ネガティブ感情の社会化のプロセスが困難にある
まず、「感情の社会化」というものを知る必要があります。
「感情の社会化」とは、身体感覚としての感情が言葉とつながり、言葉によって他者と共有することができるようになるということです。
子どもが物の名前を覚えるとき、「もの」と「名前」が一致して学習していくように、子どもの身体を流れる感情を周りの大人が感じ取って
言葉にして返すことで、その「身体感覚」と「感情の名前」が一致します。
たとえば、ブランコに乗ってキャッキャと笑う子どもに「うれしいねぇ」「楽しいねぇ」と声をかける。
それによって、その子は、その時のふわふわと弾むような気持ちを「うれしい」「楽しい」と学習する、ということです。
この「うれしい」「楽しい」などのポジティブな感情の社会化は、今も昔もごく自然に行われてきているのですが、
「怒っている」「悲しい」「さみしい」「不安だ」「憎たらしい」などのネガティブな感情は、この感情の社会化プロセスを
たどることが困難になっていると筆者は述べています。
なぜかというと、そのネガティブ感情が身体に湧き上がっている子どもがとる行動はたいてい、
「物を投げる」「泣く」「わめく」というものであり、これが親の望まない行動であることから、感情を言葉に出されないことに加え、
「泣くんじゃない」「我慢しなさい」「投げちゃダメ」という行動やその感情自体を抑止させるものになっているからです。
こうして、子どもが泣いたり怒ったり悲しむことが当然の場面で、その感情の表出が歓迎されない状況が日常的に
繰り返されてしまうと、子どものネガティブな感情が社会化されるプロセスは失われてしまうということになります。
この結果どうなるかというと、ネガティブな感情に直面した時、そのネガティブ感情=身体の中を流れる不快なエネルギー
が何かわからないので、子どもはパニックになるのです。
適切なのは、子どもの抱えるネガティブ感情を大人が察知して言葉にして、抱きしめてあげることです。
不快な感情を安全に抱えられるのだと示すことと説いています。
②感情の封印はのちに大きな問題になる
①で示したように、ネガティブ感情の社会化をさせることができない子どもが、もっとも取りやすい行動が
感情を封印させること(=解離様式による適応)です。
たとえば、学校でいじめられて登校したくないというとき。
うまく気持ちを言葉にできず、朝、玄関でぐずぐずして母親と話しているところ、
それを見た祖父母が「しつけができてない」と大好きな母を叱っているのを見て、
「自分のせいでお母さんが困っている」と思い、自分の感情にふたをして元気に登校する。
たとえば、幼いころから「天使」と呼ばれ、家族からいい子であることを求められたとき。
不満やネガティブなことがあっても、親の前では感情を表に出さないで、ニコニコして過ごす。
これらの行動は、一見、親の望む子どもの(問題のない)姿として映ります。
しかし、この行為は何らかの引き金で、のちに大きな問題となって表れるというのです。
それは、何らかのトラウマとして、ある場面で体が動かなくなったり、外でいじめをするようになったり、
中学生になってから問題行動をしたり、リストカットなど自傷行為をしたり。
親からすると、「あんなに聞き分けもよくて素直だったのに。なぜ?」ということになるわけです。
③親になる覚悟というのは、親が親自身の感情よりも、子ども自身の感情に目を向けて大事にする覚悟をすること
これは、子どもに何か起きた時、「子どもの感情」でなく、親である「自分の感情」ばかり見るのではなく、
「子どもの感情」を大事に受け止め、その感情を抱きしめて「子どもを支える」覚悟を決めることを指しています。
本文中には、【子どもの不登校】の事例がありました。
朝、子どもが学校に行きたくないと愚図るのが1週間続いたとき、親のあなたならどうする??との問いに、
■A君の親 「我が子が学校に行かないなんて?!どうしたらいいの??」と不安になる
⇒「みんな行ってるでしょ?早くいきなさい!」と、登校させようとする
■B君の親 「行きたくないなら好きにしたらいい」と深く受け止めない
⇒休ませる
これらを答えた架空の親がいましたが、これに対してどちらも危機だと筆者は述べています。
なぜなら、親が子どもの感情に触れていないから。
言い換えると、どちらの親も、子どもの感情でなく自分の感情を優先させていると言えます。
「不登校の親の自分」になることに対して危機感をもち、その気持ちを落ち着かせるために
■「不登校の親は嫌だ、そうさせるまい」と戦う
■「どうしたらいいのかわからない」と、見ないふりをしてごまかす
これらを選択しているということです。
結論が「学校を休ませる」ということであったとしても、それを選ぶまでのプロセスが重要になると筆者は述べます。
親が自分の中に湧き上がってくる不安を簡単に回避せずにぐっと抱えたまま、子どもの感情をきちんと抱きしめるというプロセスを経て、子どものつらさをしっかりと親が抱えた上で「あなたを支えていくから」という覚悟を親が決めたという状態で、「学校を休んでいいんだ」という境地に至ったとき、子どもは安全な家庭という環境の中で、回復して成長発達していくことができます。
生まれた時から一緒にいる我が子をつい、自分と同一化してしまい、子どもの問題を自分の問題として捉えて、
自分の感情のままに処理しようとしてしまいがちですが、親は、子どもの感情を優先させて行動しましょうということでした。
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ここからは、私の実践の話です。
うちの2歳半の息子は自己主張が激しくなり、思い通りいかないと物を投げる、蹴る、叩く傾向が出ていました。
例えば、「保育所行こう」「ご飯食べよ」「お風呂入ろ」「もう寝よう」など言うと、「遊ぶ!!」と毎回言います。
「時間決める!鳴ったら終わり」と自ら言ってタイマーをセットしますが、そこでタイマーが鳴ると
「時間決める!」と再度言い出します。「いや、決めたんでしょ?おしまいね」というと、今度は泣いて怒ります。
「ポイ!」といっておもちゃを投げたり、「アンパンチ!」「アンキック!」と殴るわ蹴るわ・・・・
私は痛いのが苦手なこともあり、殴られる蹴られるが本当に嫌です。
「叩くのも蹴るのもダメだよ!痛いでしょ!」と、その行為をよく叱っていました。
でも、これだと、息子のネガティブな気持ちが社会化されないのですね。
この本を読んでから、私は行為をすぐに注意しないようにしました。
無理をしたということもなく、ふと頭に浮かぶのです。
「そうか、いま、息子の身体の中では不快なエネルギーが充満していて、その扱いがわからないんだな・・・」と。
そう思うと、叩かれたことの痛みや怒りよりも寄り添おうという気持ちになります。
殴られようと蹴られようと、ただ抱きしめて
「遊びたかったんだね~。やめないといけないのが辛いんだね。悲しくて辛いんだね。」と包み込むように言うと、
息子も私をギュッと抱きしめて、「うん、悲しい。遊びたかったー。」と、泣きながら絞り出すような声で言ってきます。
事実、息子を抱きしめて気持ちを代弁するだけで、殴る蹴る投げるは確実に止まります。
(2歳児で私のほうが力が強いというのもあるかもですが)
もちろん最初は、気持ちが落ち着いたところで、この後、すんなり言うことを聞くわけでもなかったのですが(笑)
2週間ほど続けた今は、少し変化が見られてきました。
自分の気持ちを言った後は、こちらの言い分(遊べない理由)を聞いてくれ、
そして、時間をかけてでも自分の中で区切りをつけ、自ら遊びを切り上げることが増えてきた感じがしています。
※時間をかけてでも…というのは、かけられる時間があるときは待つのですが、時間がない時は、残念ですが強制終了なのです。
今思えば、以前、「殴る」「蹴る」「投げる」をしていた時、
「ポイ」「アンパンチ」「アンキック」と大きな声を出していたのは、
「僕は怒ってるんだぞ!!!!!なんとかしてよ!!!!」のアピールだったのかなと思ったりもしています。
行動という表面だけを見て、注意するのは違ったなぁ。
苦しいのは息子自身だったんだよなぁ。
ギュッと抱き返してくる息子の力をいとおしく感じながら、
これからも忘れずに、こうして受け止めていこうと思うのでした。