本日、二葉亭四迷の「浮雲」を読んだ。

マァ、なんともこれを読んでいる間、私の心に平穏はなかった。常に気持ちが揺れ動かされた。

それにしても二葉亭四迷、クタバッテシマエとはなんとも、面白い名前。きっとこの本に出てくる内海文三も本を書いたらそんなペンネームをつけるだろう。まぁ内海は四迷とイコールで考えるのも、ナンセンスかもしれないが実際、ああいう人間ではないとこの物語はかけないだろう。そう感じる。

基本的に私のはしがきは説明などと面倒くさいことはしない。だから「浮雲」のあらすじや登場人物の紹介などはしない。まぁいないと思うがこれを読んでくれる読者が「浮雲」という作品に私を媒介して触れてくれたら恐悦至極の限りだ。

 

内海と私

この内海という男、どうも意気地なしで軟弱で嫉妬家でプライド高く変に頑固な本当にめんどくさい人間の権現のような男だ。第三回、お勢さんといい雰囲気になりながらも
「お勢さん、貴嬢もあんまりだ、余り・・・残酷だ、私がこれ・・・これ程までに・・・」

と、お勢さんを非難する。読んでもらえた方にはお分かりいただけると思うが、ここは確実にお勢さんに告白する場面なのだ。なのにも関わらず、内海はお勢さんに対して、「私はこんなにあなたのことを思っているのに、あなたは見向きもしてくれない」と。内海の言いたいことはよーくわかる。夏目漱石先生は女性を無意識の偽善者(Unconscious hypocrite)と言った。女性は無意識に男を傷つける。何気ない仕草、何気ない言葉が火となり槍となり、恋する男性を焦がし、貫く。そしてその何の意味も持たない仕草に男は振り回されてズタズタになる。しかしそれは女性はたいていの場合良かれと思ってやるのだ。まさに無意識の偽善者。漱石先生は女性経験が少ないながら実に的を射たことを言う。内海もこの場面でそういうことを伝えたかったのだろう。しかし、なぜ今なのか。明らかに雰囲気は良いのだ。そしてお勢さんの反応も悪いものではない。なのにも関わらずここでまさかの告白とは真逆の行為を行ってしまう。ここに内海という人間の弱さ、意気地なしである面が十二分に表れている。

振られることは怖いことだ。私もそう感じる。友人関係が壊れるのは怖いことだ。告白という三途の川の渡り船に乗ってしまったら最後、もう二度と彼岸に帰ること、元の関係に戻ることはできないのだ。勿論、告白は慎重になって然るべきだ。その船の先が涅槃か地獄かはわからない。それなのに船に乗るのは恐ろしいことだ。下の見えない崖に飛び込むようなものだ。だったら涅槃にいくための地図を描くために確実性を高めて告白することはもっともらしいことだ。確証のない告白は博打であり、これは愛という言葉をしらない品のない阿呆がすることだ。ただ私も、じゃあいつになればその確証が付くのかと言われたら何とも言えない。だから私は相手がそのそぶりを見せてくれるまで確証をつかめない。それ故未だに独り身だ。私は内海とよく似ている。

 

「浮雲」とはなにか

タイトルにあたる「浮雲」。それは四迷自身が記した「はしがき」に登場する『受けて

 

 

墨摺流(すみすりなが)す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情(うたて)始末にゆかぬ浮雲めが艶しき月の面影を思ひ懸(がけ)なく閉籠(とぢこめ)て』と登場する。時代、人の世の無情観を言いつつも自身の小説を上手く書けないことに対してもここで述べている。だがなぜ「浮雲」というタイトルなのかの由来は書かれていない。よく「浮雲」は江戸時代は「あぶない、あぶなし」と読んだから、優柔不断でプライドばっかり高い内海に対してあぶないということを言っているのではないかというのをよく見聞きするのだが、私はそうは思えない。どちらかと言えば、この「浮雲」は内海文三の状態を表しているのではないか。どこか不安で、上の空。ふわふわしてる。ぼんやりとし、一つの場所にとどまるほどの根性もない。まるで浮いた雲のような男。それが内海文三だ。とまぁこういうわけだがこの言説も数多言われてきたことで何番煎じかはもうわからないが・・・

 

 

 

現代人と内海文三

とまぁここまで散々内海のことをけちょんけちょんに言ったわけだが、明治時代の、「浮雲」が連載された当初の人たちも内海をぶっ叩いた。明治時代とは言えこの作品が書かれたのは、明治初期。まだ江戸の文化も残っていた時代である。江戸時代の作品における主人公と言えば、馬琴先生の「南総里見八犬伝」やその他の人情本、歌舞伎といった物語では勧善懲悪が基本でヒーローが主人公だったのだ。だが明治になり、坪内逍遥が「小説神髄」の内で勧善懲悪を否定し、あるがままの人間を書こうと提唱した。そしてそのモデルケースとなったのがこの「浮雲」であった。しかし大半の読者は作品自体は評価しつつも内海文三の人物像は「軟弱者」「薄志弱行」など散々だった。しかし時代は流れ現代となった今、内海文三のような人間は私を含め幾人もいる。「言いたいことを言い出せず、大事なところで言わなくてもいいことを行ってしまいすべてを台無しにしてしまう」そんな人間はあまたいる。そして多様性の社会と言いつつも、出世するのは本田昇のような人物で内海文三のような男は会社でも「暗いやつ」という烙印を押されて疎外される。今の現代にも通ずるところはたくさんある。さらに言えば、明治時代より人間の「内海文三化」は進んでいるだろう。きっと私のような内海文三に似たタイプの人間がこの本を読めば心のどこかで軽蔑しつつも、自分と重なる部分がたくさん見えて自己嫌悪に至ってしまう。そんな物語だ。二葉亭四迷がきっと筆を折ったのも自分と文三を重ねてしまい、我々現代人と同じ感覚になったのではないかと百年以上前の二葉亭の思考を想像する。