絶歌 神戸連続児童殺傷事件
元少年A
この作品がもし完全なフィクションで現実世界に何の影響も及ぼしていなかった場合、僕は名作だと手をたたいて賞賛しただろう。
ただ、この本に書かれている余りにも残虐で気分が悪くなるような「こと」は全て現実の世界で実際に起こっている。
罪のない二人の児童の命が奪われ、一人の少年が大けがを負った。そして殺された児童の遺族は二度と消えない傷を負った。
この本はそんな「だれかの命を奪った者」「だれかに永遠に消えない傷をつけた者」が書いた本だということは前置きしておかなくてはならない。
たとえ文章があまりに巧みで表現がいくら美しても、誰かを傷つけるような文学はそれは文学ではない。文字を使った「凶器」だ。
例えば太宰治の「人間失格」の影響を受けて自殺したものがいるとしよう。しかしこれは凶器にはなっていない。何故なら太宰は、特定の誰かを傷つけるために「人間失格」を書いていないからだ。
それはあくまで「勝手」に読者が本を読み「勝手」に解釈し「勝手」に死んだだけだ。つまり持ち主の使い方が悪かっただけだ。包丁を想像してほしい。普通に使えば包丁は誰かを傷つけることはないし、自分を傷つけることもない。持ち主の使い方が悪くて勝手に
自分を傷つけただけだ。
しかしこの本は違う。「絶歌」を出すことによって間違いなく遺族は事件の禍根を描写し想像するだろう。それにより遺族の「二度と消えない傷」を再び抉ることになるのだ。それは例え傷つける意図はなかったとしても、想像は必ずつく。さらに「最後の遺族の方へ」で
「今さら何を言っても、何を考えても、どんなに後悔しても、反省しても、遅すぎると思います。僕は本当に取り返しのつかない、決して許されないことをしてしまいました。その上さらにこのような本を書くなど、皆様からしてみれば、怒り心頭であると思います」と書いている。即ち遺族の心も理解した上で遺族に「無許可」でこの本を書いたのだ。これは立派に誰かを傷つける「凶器」だ。文学は良くも悪くも誰かの感情、心情を動かしてこそであると思うが、この本はそういうことではない。死んだ人は帰ってこない。それを「奪った側」からの目線で書き、贖罪の気持ちはあるといいつつ本名で出版しない。ある意味「元少年A」を神格化に近いことをしようとしているナルシズムも感じられて「狂気」も感じる。この本は遺族を傷つける「凶器」でありながら、自己の異常性を告白するという名目で白日にさらす「狂気」でもあるのだ。
この本は僕が最も愛してる「文字」を使った凶器であることは間違いない。出版するべきでなかった。そう、思う。
しかし・・・
いやそれを語る前に一つ告白しなければならない。現実の世界の私は噓にまみれている。虚栄で着飾り、虚構をひた隠そうとする。脆弱な人間だ。だから、私は文学に対しては正直であろうと思う。いままで僕を数多の知らない世界に案内してくれた文学だけは裏切りたくない。いや裏切ってはいけないのだ。憧れの象徴で僕の隣で人格をこね続けた文学にだけは正直でなければいけない。だから不快に思う人がいたら申し訳なく思う。
しかし、僕はこの本を読んだとき、「文学的価値」をこの凶器に見初めてしまったのも事実だ。先のところで「たとえ文章があまりに巧みで表現がいくら美しても、誰かを傷つけるような文学はそれは文学ではない」と言っておきながらこんなことを言うのは自分でも乖離したあまりにおかしなことだと思う。しかし読んでみてもらえばわかると思うが、最愛の祖母の「死」の描写、初めて猫を殺す際の気持の表現、自分の好きな池で過ごした日常の描写、そして被害者を殺害したあとの表現など、全てが生々しくグロテスクに綴られている。
そのあとの少年院、構成していくまでの心理描写、周りの人間の描写力、そしてなによりも僕が悪くも心を取られかけたのが「母親との面会」のシーンだ。最初は、「どうしたらいいかわからず、大粒の涙を流し怒鳴り散らした」のであったが二回目にあった時に母親に謝罪をするのだ。そして、自分が病気であることを告げる。そして自分がこんな事をしたのは母のせいではないと、そしてなんで相談してくれなかったのかと問う母親に知らないほうがいいこともあるでしょ?とそうしたら母が親は子供のことは全部知っておきたいんだと泣き崩れる。その後に過去の回想が入るのだが、「絶歌」の中でも書かれているが、少年Aは母親に愛されていなかったんじゃなかったのかなど言われていたがこの本を読む限り、きちんと、しかも人以上に愛されていたと感じる。僕もふと、自分がもしこんな事件を起こしたら、僕の母親もアクリル板越しに「なにがあっても自分の子」だと「どんなことがあっても愛する気持ちは変わらない」と言ってくれるのだろうかと考えてたら一人暮らしでホームシックになってることもあって泣いてしまった。この本で少年Aの「家族」が取り上げられるたびに僕は泣いてしまう。不器用だがきちんとAを気にしていた父親、なによりも、誰よりもAを愛し、この世のすべてと言わしめ、酒鬼薔薇聖斗が生まれるきっかけになったという祖母。自分の家族を思い出してどうしても涙をこらえきれなかった。
祖母に関して少し意見を言うなら少年Aの年齢で愛する人を失った人はきっと他にもたくさんいるだろう。だからそれで酒鬼薔薇聖斗が生まれたというのは私としては承服しかねる。きっと少年A自身が元からそういう「怪物」をいつごろか心の中に飼っており、最愛の祖母の死という最大の不幸であり餌を得た「怪物」がついに殻を破って出てきただけだろう。人間は人を殺せない。それは何らかのストッパーがありできないように作られているのだ。しかしときたま、それが存在しな人間が誕生する。それが少年Aであり酒鬼薔薇聖斗だったのだろう。祖母の死はあまたあるきっかけのひとつにすぎないと僕は思う。
きっと道を踏み外しさえしなければ立派な作家に、きっと僕が敬愛する作家のひとりになれたであろうと言えるほどに巧みだ。
次章で説明するつもりでいるが、この本には不思議で危険な得体の知れない魅力があるのは、確かなことだと思う。
なぜ、こんな殺人鬼に文学の才能があるのに、真面目ではないが人並みに生きている僕には才能がないのかと感じた。また神を恨む理由が一つ増えた。
この本を読んで真っ先に浮かんだ感想は中学、高校時代に読まなくて良かった。だった。もし高校時代、いや中学時代に読んでいたら間違いなく僕は影響を受けていた。酒鬼薔薇を礼賛し崇拝し、畏敬の念を抱いていただろう。今、人格が形成されただの殺人鬼にしか見えず吐き気すら覚えるのは我ながら自分が成長した証だろうと実感する。なぜ中学時代の僕は酒鬼薔薇を礼賛するのか、それは間違いなく多感な時期にこの「絶歌」を読めば、誰しもが抱える心の闇の部分、「歪」とも呼べるそこに、液体のように侵入し瞬く間にその「歪」を成長させるだろう。そして多分僕の性格上、その「歪」は僕を乗っ取り、きっと今よりずっと暗くて陰湿で酒鬼薔薇の言う「カオナシ」にあこがれていただろう。それほどにこの本には弁舌し難い惹かれる何かがあるのだ。中学時代の僕はナチスのカッコよさに惹かれ、ヒトラーのしたことは間違ってなかったと本気で信じ込み、SSに憧れなんとかあの黒くてカッコイイ制服を着て総統に右手を上げれないかと思案していたほどである。今思えば立派な黒歴史であるが、まだそれがヒトラーで「良かった」。ヒトラーのしたことはユダヤ人の虐殺と日本人の中学生には途方もない話だった。つまりヒトラーに感化されても実行は不可能なのだ。しかし酒鬼薔薇はどうだろうか。ヒトラーとは違い児童三名を殺傷と、途方もない話ではくいっきに現実味が増す。そして猫をよく殺していたらしいがうちの近所にもたくさん野良猫はいた。これは実現可能だった。そしてなにより「酒鬼薔薇聖斗」という名前に惹かれるだろういわゆる中二病全盛期だった僕は間違いなく名前だけであこがれを持つ。そしていざ「絶歌」に手を出した場合、間違いなくその表現の巧みさに惹かれ、同時に共感もしていただろう。例えば我ながら歪んでるとは思うが「美しいものが全て憎かった」これは今でも少し共感を覚えた。景色を見て美しいとか可愛い子を見て美しいとか思ったりするが同時に僕は自己嫌悪してしまう。僕はいままで誰かから美しいなんて言われたことないし、自分で美しいと思ったことなんてもちろんない。だから僕が持っていないものを持っているそれが、すごく不愉快なのだ。僕なりに言い換えるなら「僕の持っていないものを持っている全てが憎かった」だろうか。これは嫉妬からくる間違いなく醜い感情だろう。でも、それは誰かの唯一無二になった自覚のない人間の世の中に対するせめてもの攻撃なのだ。
そして何かあるたびに名著を引用したり、細かいとこで言えば異様に喉が乾くとこも似ている。こんな殺人鬼と似るのは本意ではないが、読んでる僕は一瞬だけ酒鬼薔薇聖斗と僕を重ねてしまったことをここに告白しよう。
そしてなによりも酒鬼薔薇聖斗が育った環境が普通だったことも少なからずそう感じた要因になるだろう。シリアルキラーの家庭環境は大抵悪い。親や養父母からの虐待を受けたり、貧乏だったりする。だが酒鬼薔薇聖斗に至っては自分と変わらないなんら普通の家庭なのだ。さらに酒鬼薔薇は家族みんなから愛されて、本人もそれを自覚している。普通の少し違う点を言えば愛されている家庭なのだ。そこから殺人鬼が生まれる。似た環境にありながら自分のできないことをやった酒鬼薔薇は中学時代の歪んだ僕には英雄に映るだろう。
少年Aは忌むべき殺人鬼であり、遺族を傷つけるこのような凶器を生み出し、文字を冒涜したことは到底許されるべきではないと思う。ハッキリ言って二人の人間の、更に未来ある子供の生を奪った罪は何をしても償えないと思う。そのなかでこんな贖罪とは真逆の性質のものを生み出したことは理解に苦しむ。出版するべきでは間違いなくなかった。が、しかし正直に言わせてもらえば心の深淵の餓えた僕はこの本を読めてよかったと感じてしまった。遺族がいるのに対してどうしてこんなことが言えようかと思い、押し殺そうと思った。遺族の方には本当に申し訳なく思うがこの「絶歌」には普段見ることができない凶器としての文学を垣間見ることができた。文学者を志す僕には最大の反面教師の本といえよう。こう思ってしまうあたり僕も少年Aと何ら変わらないのかもしれない。
この本を読みたい人がいるならオススメはしない。きっと読み終わった直後に不快感があなたを包みそれは暫く停滞し続ける。
それでも、この本を読みたいと思うなら、その人が分別のある善悪の区別がつく人であることを願うばかりである。