2月22日は

我が家にはニャンコの茶々丸はいるけれど

ニャンズの日ではなく

母の三回忌。

 

母は2年前の令和2年2月22日土曜日、

ちょうどラジオ日本「ミュージック・パーク」の生放送中、

おそらく番組後半の20時半から21時の間…に、

一人自宅で旅立ってしまった。

 

満92歳の老衰。

 

短期間だったけれど

入院中も、施設にいたときも、

とにかく

「家に帰りたい」

の一点張りだったので、

1月後半から我が家で看取り介護を始めた。

 

それから3週間。

近所の人たちや、友人たちが

次々と母のベッドサイドに会いに来てくださり、

最後の最後まで

皆様の温情で母は女王様でいられた。

 

旅立つ瞬間は、

母のベッドを設置していた

リヴィング・ルームの隣のキッチンには

私の娘も孫もいたのだが、

テレビを見たり、スマホ・ゲームをしていたらしく、

母の旅立ちには気が付かなかったようで、

どうやら

母は眠っているうちに、

さっさと一人で逝ってしまったようだ。

 

ラジオ番組が終わって帰りの電車の中で、

娘からのラインで、

「おばあちゃん死んでるかも」

「心臓動いてない」

と知らされた。

 

コロナ禍で世の中が閉じ始める直前のことだったので、

何とか葬儀も親しい方に集まっていただき

静かに執り行うことができた。

 

それもやはり

生涯わがままを通すことができた

母の境涯だったのだろうと思う。

 

そんな母は

手先が器用で、

昔は子供の服などはすべて手作りの時代、とはいうものの

私のスカート、ワンピース、ズボン、セーター、ブラウス…など、

すべて母の洋裁、編み物の作品だった。

 

更に、子育てが終わったら

様々な趣味に…。

 

    

 

華道、茶道、刺繍、木目込み人形…などなど。

 

   

 

 

ニューヨーク在住時代も

商社の奥方殿と集まっては

お茶会をしたり、

ハム作り、ケーキ作りなどを楽しんでいた。

 

一度も外で働いたことのない

社交的な母は

習い事はもちろん、

友人たちとのお付き合いも

積極的に進めた。

 

それができたのは、ひとえに、

まじめに働きつつづけた温厚な父のおかげ様!だ。

 

 

そんな「下町のお嬢」を貫き通した母の

DNAは私には受け継がれていないようだ(笑)。

 

私は花も生けられないし、茶道もさっぱりだし、

ミシンもかけられないし、編み物もできない…。

 

手先の器用なDNAは

どうやらアメリカ人になってしまった

3歳年上の兄の方に行ってしまったようだ(笑)。

 

母が亡くなって丸2年。

 

母のように我がままにはなりたくない…と

母を反面教師のように思ってきた私だが

最近

ともすると

あ、母に似ているかも?と、

自分でもハタと気が付くことがある。

 

いやいや、私はお父さん似です!と、

内心一人でまだ反抗している。