そして翌年のあの三月九日。

 

次男の弟を

第一亀戸国民学校へ入学させるため、

赤ん坊を負ぶって

付き添って行った私の姿を見て、

先生方は驚かれていましたが、

学校へ預ければ安心だから

と慰めてくださり、

その夜はほっとして

ランドセルを枕元に置いて

寝かせました。

 

そしてその夜更け。

 

敵機が

南方海上へ去ったということで

寝静まっていたところへ、

突然、焼夷弾が落下。

 

あたりは

みるみる火の海になり、

私は赤ん坊を背負い、

六歳の弟を連れて

逃げたのですが、

火の粉が竜巻となって

舞い上がり、

強風に押されながら

川の方に向かい、

そこで立ち往生してしまいました。

 

その時、足元で、

「ここへ入りなさい」

という声がして、

見ると

防空壕の穴があったので

飛び込んだのですが、

それが悪かったのです。

 

蓋もない

ただ地面に穴を掘っただけの

防空壕だったので、

頭の上から、

まるでカマドの入り口のように

火が入ってきてしまったのです。

 

何とかして

そこから出ようと

弟を下から押し上げたのですが、

一メートル余りの穴から

這い上がれず、

私が先に出て

引っ張りましたが、

下を向くと

背負っていた赤ん坊が落ちそうになり、

そのうち、

ねんねこに火がついてしまい、

私は慌てて川に入り、

川の中で杭につかまりながら

首まで掴まっていました。

 

夜が明けて、

一面の焼け野原に

煙がブスブスと立ち上っている中、

弟を抱いて

ずぶ濡れの体で横たわっていた時、

父やすぐ下の弟に出会いました。

 

父は橋の上から

筏の上に飛び降りたときに、

足を捻挫し、

棒を杖にして

びっこを引いていました。

 

弟は逃げる時に

燃えている家の中から

掛布団をかついで外へ出たとたん、

強風に巻き上げられて

布団が飛んでしまったので、

お米の入った一斗缶を抱えて

川の淵まで来たときに

母の妹が川の中にいて、

上げてくれるように言われたので

引っ張り上げようとしたものの、

できなくて、

棒か何かを探してくるからと、

その場を離れ、

再び棒を持って戻った時には

叔母の姿はなくなっていたそうです。

 

叔母は神楽坂に住んでいましたが、

夜だけ私たちのことが心配で

亀戸に泊まりに来ていました。

 

神楽坂の家は焼け残り、無事でした。

 

防空壕の中で死んだ

弟の亡骸をお骨にして、

焼け跡から拾って来た壺に納め、

焼けトタンを拾い集めて

川のたもとに囲いを作って、

何人かでまた夜を迎えました。

 

親類も表の家、

裏の家と二軒ありましたが、

一軒は四人、

もう一軒は三人の家族を失い、

言葉もなく、食べるものもなく、

弟が持ち出したお米は

真っ黒に焦げて、

中の方のいくらかましなところを

焼けたお釜で炊いてみたのですが、

ジャリジャリと砂を噛んでいるようで、

空腹のまま、

身内の始末などをしたのでした。

 

真っ暗闇の中、

外へ出ると

あちこちで

青白い炎がボーっと見えました。

 

死体から出る

燐が燃えているのでした。