8月15日の終戦記念日を前に

どこかに記録として残しておかなければならないと

痛切に感じた手記を掲載させていただきます。

これはお隣りに住む92歳のお姉様が体験した

壮絶な戦争体験記。

小学校の同窓会で同年代の戦争体験者たちが

「戦時中の思いを文集にする」という機会に

お姉様が書いたそうです。

 

少し長いので今日から4回に分けて掲載いたします。

 

 

昭和十九年府立第七高女の三年生でした。

戦局も悪化の一途をたどり、

勉強もしていられなくなって、

教室で軍需品を作ることになりました。

全校生徒で明治神宮へ必勝祈願の参拝にも行きました。

服装はズボンにゲートルを巻き、

肩から防空頭巾と非常袋をたすきにかけ、

第七高女の腕章をつけて、

戦地の兵隊さんの武運と長久と、

銃後の護りを誓い、

心を引きしめて帰ってきました。

その夜から母が寝込み、

一週間足らずで亡くなってしまいました。

赤痢でした。

 

またたく間に祖父と弟三人が感染し、

感染していない次男を神奈川県藤沢市の親類に預けて、

祖母が病院に付き添い、父と私の二人は悪戦苦闘。

 

近所の人たちは伝染病患者が出たということで近寄らず、

昼は敵機の目印になるからと洗濯も干せず、

夜は灯火管制で灯りが外に漏れないように、

黒い幕を張りめぐらし、

警戒警報と共に電気を消して、

暗闇の中、母の死に泣くことも忘れていました。

 

その時残された子供たちは、

私を頭に二歳年下の小学三年生の長男、年子の次男、

これから入学する六歳の三男、そして生後四月の四男でした。

その四か月の赤ん坊をよそにくれると言われた時、

私は「私が育てる」と言い切って、

モンペ姿で弟を背負い、学校へ休学の手続きに行きました。

小使い室へ行って担任の先生を呼んでもらったのですが、

私のことを「どこかの奥さんが赤ちゃんを背負って来た」と言ったそうです。

 

呼ばれてきた先生は私を見るなり、

あら、○○さん、うちの生徒ですよ」と言って、

「教室では話ができないから屋上へ行きましょう」と、

先に立って階段を上っていきました。

屋上には高射砲が据えられ、

時計台の上では兵隊さんが見張りをしていました。

先生は

「今は勉強もできず、赤ちゃんを育てることもお国のためだから

学校のことは心配せずに、何か月か経ってまた戻っていらっしゃい」

とおっしゃってくださいました。

 その後、入院していた三人は退院してきましたが、

 布地は消毒のため、布団は全部ほどいてお釜で熱湯消毒し、

 それをまた縫い直すのです。

 私は弟を背負ってあやしながら外で縫ったりもしました。

 小学三年生の長男は学童疎開で山形の上山へ、

 他の児童たちより遅れて、縫い直した布団を持って疎開。

 空襲で泣く赤ん坊を背負い、

   周囲に迷惑のかからぬよう、

   あきらめて泣き止むまでの間、

   夜中の十間川にかかった橋の上でたたずんでいたのも、

  毎晩のようでした。
 

 

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