ヨガインストラクター

養成コースを卒業したことや


福祉施設でヨガ企画を

やらせていただいたことなど

 

書きたいことは
ほんとうにたくさんあるのですが

 

また別の記事で
改めて書きたいと思います。

 

 




今日は
人間の価値について書きたいと思います。

 

 

結論からいうと

人の価値は
みんな一緒ということです。


 

優劣もない。

 

仕事ができる人だろうが
学歴がすごい人だろうが

 

貧乏だろうが
お金持ちだろうが

結婚してようが
してなかろうが

 

子どもを産んでようが
産んでなかろうが

 

美人だろうが
不細工だろうが

 

どんな人の命も同じで

優劣などないということです。

 


 

 

死が平等であるならば
その対極にある
生も平等なのではないか

 

 

ここのところ
心の奥で考えていて

 

今日の出来事によって


自分なりにしっくりとくる
自分なりの考えを見つけました。

 

 




ここからは


今日の出来事から
具体的に書いていきたいと思います。

 

 

あくまでも
私が感じたことであること

私自身の気づきであり

私なりの哲学(正解のないことへの考え)
であることをご了承ください。

 

 

そして


死という言葉が

多く出てきますので

 

怖いなと感じたりする方は


読まずに自衛してくださるよう
お願いいたします。

 

 

興味のある方には

 

娯楽としてでも
何かを考えるきっかけにでも

ご自由に読んでいただければと思います。

 

 




バイトへ行くために
歩いていたときのこと。

 

歩道に
ぺったんこに潰れた
ネズミの死骸がありました。

 

一瞬
私は「うわっ」と
ビックリしてしまいました。

 

見たくないものを見てしまった…と思いました。

 

 

 

でも
そのあとすぐに思ったのです。


このネズミが死んだことと

 

愛犬の太郎ちゃんが死んだこと

 

そしていつか私も死ぬことに

なんの違いがあるのだろうか。と。

 

 


ネズミも

 

太郎も

生まれてきたものは
いつか死を迎えるという

 

同じ結末を迎えたに過ぎません。

 

 

 

 

“この世に絶対ということはない。

 

けれど
ただ一つだけ


絶対と言えることがある。

 

それは生まれてきたものは
いつか必ず死ぬということだ”

 

 

という言葉が

10代の頃から
私のなかにずっとありました。

 

 

だから

私はよく


その言葉を思い出しては

 

死ぬのが怖いなと思ったり

いつか絶対に死んでしまうのなら


後悔のないようにやりたいことをやろう

と思って生きてきました。

 

 

いろいろなことを
必死にやってきました。

 

必死という言葉は
必ず死ぬと書きます。

 

必ず死ぬことを知っているからこそ
私ができることに全力を注いできました。

 

 

 

 

どうしても
人間社会のなかにいると

 

他人と比べてしまい

 

羨ましいと思ったり


自分の方が劣っている

 

と思ってしまうことがあります。

 

 

障がいがあると
なおさら健常者と比べてしまいます。

 

少なくとも
私はそう感じてしまうことがあるのです。

 

 

でも
ほんとうにそうでしょうか?

 

 

この世で絶対の死。

 

みんなに平等にある死。

 

それならば
生もまた平等なのではないか。

 

 

そう考えていたところ


潰れたネズミを見て

 

私は

 

このネズミも生きてきたんだな


今こうして死んでしまっているけれど

 

死んでいるということは


この世に生まれて生きてきたんだな

 

と思ったのです。

 

 

 

 

太郎ちゃんも


生まれて生きて

そして死にました。

 

 

私もいつかは死ぬのでしょう。

 

正直死ぬのは怖いです。

 

でも逃れることはできません。

 

 

キラキラして見える芸能人だって

ガッキーだって


いつかは死んでしまうのです。

 

 

 

 

どんな人生を生きようと


辿り着くところは「死」のみなのです。

 

 

そう考えると

どんな生き方だろうが

社会の役に立っていようが
立っていなかろうが

誰の命にも
どんな生物の命にも

 

優劣はなく

 

ただそこに
生があるだけなのです。

 

 

 

 

THE BLUE HEARTS の
「リンダ リンダ」という有名な曲に

 

“ドブネズミみたいに美しくなりたい
写真には写らない美しさがあるから”

 

という歌詞があります。

 

 

私は


その歌詞の意味を
どう捉えたらよいのかわかりませんでした。

 

 

どうしてこんな歌詞ができたのか。
甲本ヒロトさんは何を思いこの歌詞を書いたのか。

 

 

甲本ヒロトさんの思いを
知ることはできませんが

 

この強烈で斬新な歌詞に
私は自分なりの答えを得たかった。

 

 

今回


ネズミの死骸を見て

その答えを得られた気がしています。

 

 

それは太郎ちゃんの死や
ヨガの学びを深めていることなど

 

いろいろなことが重なった結果だと思います。

 

 

私自身が今日まで生きてきたから
必死に生きてきたから導き出された

 

私なりの答えです。

 

 

 

 

潰れて死んでいたネズミ。

 

そのネズミも
死ぬまでは生きてきたのです。

 

 

一見汚いように思えるネズミ。

 

たしかに
衛生面で考えたら
綺麗ではないです。

 

 

でも
生まれて生きてきたこと。

 

死ぬまで必死に生きてきたこと。

 

それは
とても美しく

 

決して
写真に写るものではありません。

 

目で見てわかることではありません。

 

 

 

 

私たちも
同じなのではないでしょうか?

 

生まれて生きて

いつかは死を迎える。

 

必死に生きている人には
写真には写らない美しさがあるのだと

 

私は思います。

 

目には見えない美しさがあるのです。

 

 

 

 

目に見えるものだけを捉えていたら
そのことに気づくことはできません。

 

同じものを見ても
捉え方ですべては変わる。

 

心の目を開いていくこと。

 

そうすることで
人生のなかで見えてくるものが
より美しいものになってくるのではないでしょうか。

 

 

 

 

そうは言っても

社会のなかで
人と比べてしまったり

自分のことを劣っていると
感じてしまうこともあるかもしれません。

 

 

だからこそ

自分と向き合う時間

 

ヨガでいえば瞑想をする時間

 

そのような時間の積み重ねによって

 

自分を覆っている皮が
一枚一枚と剥けていき

 

 

表面だけでない
本質を見る心の目が
開いてくるのだと思います。

 

 

 

 

少し前の私は
そのようなことに気づいていませんでした。

 

ほんとうに毎日が

 

学びの連続
気づきの連続で

 

過去の記事を書いている私とは
全然違うなと感じています。

 

 

だから


過去の記事を書いていた私は

今の私より
表面しか見えていなかったり
捉え方がネガティブだったりすると思います。

 

 

きっと

今日の私のことも


「まだまだ未熟だったな」
と、未来の私は思うかもしれません。

 

 

ですが


ひとまず


今日生きている私。

その私はとても美しい。

 

 

そして

 

この記事を読んでくださっている
今を必死に生きているあなたも

 

美しい。

 

 

そう心から思っています。