演奏の途中だったが、
コンサートホールのロビーへ出てきたオレに
後ろからぶつかって来た奴がいた。
オレは今まで後ろから近づく人の気配に気づかないなんて事は無かったので、
少し狼狽してそいつに向かって
「どこを見ている。」と言った。
「ごめんなさい。目が見えないの。」
彼女は私の顔のあるあたりに視線の定まらない目を向けて言った。
まだ高校生くらいの少女だった。
オレは「そうか。」
と言ったきり黙ってしまった。
「彼女は気にしないで。」と言った。
オレが言った言葉を?
目が見えないことを?
それともオレが言葉に詰まったことを?
と聞きかけたがやめておいた。
全てに決まっているからだ。
オレはその時、まだ人間の音楽ってものを良く知らなかったが、
例の「本の雑誌」の仕事で、クラシック界気鋭の指揮者との対談が決まったので
下調べもかねて演奏を聞きにきていた。
そのコンサートホールでの出来事だった。
彼女がオレに聞いた。
「演奏、まだ途中なのに。退屈だった?」
「色々考えていたから退屈ではなかった。」
「でももう帰るようですね。まだ終わってないのに。」
「もう十分だ。」
「私も。」
オレはなんだか彼女が気に入ってきた。
「ではご一緒に食事でもいかがですか?」
「喜んで。ちょっと待ってて。母さんに電話しておくから。」
彼女の電話がおわると
オレ達は連れ立って外に出ようとした。
するとロビーの隅でオレの様子を伺っていたホールの支配人が近づいて来て言った。
「演奏はお気にめしませんでしたか?」
「素晴らしい演奏だったよ。」
「でもお帰りに?」
オレは少し面倒になってきた。
「仕事は8時までと決めているんだ。」
「それは残念なことです。」
奴の視線は傍らにいる彼女の襟元から僅かに覗いている下着を見ていた。
オレは彼女に
「外は寒い。上着を着なさい。」
と言った。
外へ出ると
オレは「何を食べたい?」と聞いた。
「う~ん。そうだ、あなたが普段食べているお店に連れて行って。」
そこでオレは彼女とタクシーに乗り、
いつもの居酒屋へ向かった。
彼女を連れて店に入ると、店の親爺が目を丸くしていた。
カウンターに座ると
「私、お店で食べることあまりないから。」
と言った。
「親爺さんにお任せだから。出てくるものを食べるだけで良い。」
と言うと、親爺がニヤッと笑みを浮かべた。
直後に気づいて「まかしときな。」と言った。
オレは彼女になぜあそこに居たのかを話した。
「音楽自体あまり聞きに行ったことが無くてね。
相手の事を何も知らないで対談するのは失礼だろうと言うことで、
コンサートを聞きに出かけたんだ。」
「聞きに行くって言うんですね。」
「おかしいかな?」
「皆コンサートを見に行くっていうんですよ。」
「それはおかしいと思う。」
「私、そう言っているのを聞くたびにコンサートを見たいって思うの。
でも聞くことしかできないの。」
オレは黙って彼女の話を聞いていた。
「うちの両親は私の目、ずいぶんがっかりだったらしいけど、物凄く私を大切に育ててくれたのよ。」
服装を見ればその言葉が本当だと解る。若い子が選んだとは思えない服。髪型。一昔前のアクセサリー。
でも彼女の母親は精一杯彼女をドレスアップしている。
オレにはその姿が美しく見えた。
「そうだ、そろそろご両親が心配しているかもしれないな。」
「大丈夫。さっき電話したし、こう見えても私、信用あるの。」
「知らないおじさんに付いてくる娘でも?」
「知らなくなんかないわ。私あなたの声、テレビで聞いてよく知ってるし、コンサート始まる前にホールの人と話しているのを聞いてたし、本も朗読CDで聞いたから。」
と言ってちょこっと舌を出した。
どうやら私と彼女の出会いは偶然だけでは無いらしい。
「でもあまり遅くならないうちに送っていくよ。」
「子ども扱いしないで。
あ、さっき聞くだけって言ったけど、私歌うこともなかなかなんだよ。
歌ってあげようか?」
大きな街の片隅にある小さな居酒屋で、
その時彼女は歌っていた。
人間の歌。
オレは歌を聴きながら懐かしい場所を思い出していた。
彼女はオオカミの森のように良い匂いがした。
