一宮市内への焼夷弾投下と被害
今日8月6日は広島へ原爆が投下され、被爆から79年の原爆の日である。ノウモア広島。
一宮市博物館で開催中の「企画展 戦時下の一宮」を参観して、「戦局の悪化と空襲」パネルで、戦時中の昭和19年(1944)12月17日午後9時5分にアメリカ空軍の戦略爆撃機B29により、一宮市萩原町西御堂へ散発的に焼夷弾が投下されたことを知った。
一宮市内で焼夷弾が投下された一番初めのこととなるが、一宮市萩原町史(1960)に記載はない。西御堂町内会編纂委員会著の「村の歩み尾張国西御堂」(1977)に、罹災戸数6戸・死者は無く、軽傷者有りと記載されている。
この罹災により、各方面から見舞金・物品が多数寄せられた記録が残されている。
名古屋大空襲が昭和19年(1944)12月13日以降くり返しあったことから、その余波であろうか。
昭和20年(1945)1月7日には、北今地区に焼夷弾が投下され,7戸の焼失家屋があった。(尾西市史通史編上巻)(1998)
昭和20年(1945)5月14日には、浅井町に焼夷弾が投下され、焼失家屋、死者があったと一宮市浅井町史(1967)にあり、7月12日深夜からの一宮大空襲時と併せ、死者34人、家屋の焼失519戸という大きな被害となった。町史に5月・7月の被害の内訳は無い。
一宮市街地は、7月28日の2回目の一宮大空襲で大半が焦土となり、死傷者が多い大惨事であった。
企画展に、戦争を知らない大人や子供が多く訪れ、「平和と戦争」を今一度考える機会となるよう願う。(岳紫のブログ4177)
博物館西入り口看板