白砂の河原と砂丘 | 岳紫のブログ

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白砂の河原と砂丘

 昨30日の中日新聞尾張版稲沢新聞に「祖父江砂丘」のことが掲載されていたので、いにしえのことを記してみた。

 子どものころ、岐阜街道(県道名古屋岐阜線・当時は国道)木曽川鉄橋の下流右岸(岐阜県笠松町)に、広大な白砂の河原があった。長さ700m、幅250mくらいあり、戦前にはときどき高専学生が、グライダーの滑空訓練をしていた。

 左岸の河川敷(現・一宮市北方町~木曽川町里小牧)には、桑畑に続いて広大な「砂山」(里小牧砂丘)が広がっていた。近所の子ども友達と手製の布ボールで草野球をしたり、地蜘蛛の巣を抜いたり、昆虫捕りを競ったりして遊んだ。夏休みには川遊びのあと、桑の実を採って食べ、口の周りを紫色に染めた。

砂山一帯は松林ともなっていたので、近所の大人たちは、松葉(ご)や松かさを拾い集め、風呂や炊事の焚き付けに重用していた。

 昭和30年(1955)代以降、河原の浚渫で白砂の河原が無くなって、伊吹おろしによる運ばれる砂も無くなって砂山の規模が縮小して行った。合わせて畑への転用が進んだことや、経済の上昇による生活様式の変化で、松葉拾いもなくなって松葉が堆積し、草木が茂り「白砂青松」でなくなっていった。(岳紫のブログ2533

 

  

  1953年