馬引の高射砲陣地 | 岳紫のブログ

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馬引の高射砲陣地

 

同じ健康農園のAさんが、戦時中、大和村馬引(一宮市大和町馬引)の民地に、高射砲陣地があったと話された。そのため、度々米軍機から機銃掃射があった。近くの竹藪には防空壕も造られていたとのことである。陣地の兵隊が、Aさん宅の風呂にもらい風呂していたと云う。

中央図書館へ行って少し調べて見た。「浅井與兵衛日記抜粋・馬引と戦争の関わり」(浅井武編)と云う貴重な冊子があった。

今から72年前の昭和20年(1945)6月13日に、大和村馬引字西出地内(森吉倉庫北東隣辺り)で高射砲陣地造りが始まって6門設置された。東隣の一宮市を守るためとあった。

警戒警報の発令は、昭和19年(1944)11月5日に始まったようで、連日警戒警報が発令されている。

 昭和20年(1945)1月7日に北今地内に焼夷弾が落とされ、7戸火災とある。7月12日一宮大空襲の1回目であるが、馬引の田畑に146個の焼夷弾が落とされ、民家二軒が被弾と記録されている。一宮市街地、郊外の光明寺、今伊勢町にも大きな被害があった。

起街道沿い八幡通りには、川崎航空機製作所など軍需工場があったので、主にそこを守るために高射砲陣地が設けられたのであろう。しかし、成果は少なかったようだ。川崎航空機製作所などは、翌月28日から29日の焼夷弾爆撃(2回目の一宮大空襲)によって大部分焼失してしまった。

他に、一宮市内の高射砲陣地については、尾西第一中学校付近と開明地区(西尾張中央道付近)にも設置されていたと聞く。

 

昭和54年ごろの図