岳紫のブログ

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白圭社書法篆刻展&賀状(作品)の里帰り

 今日は暦の上で「立秋」であるが、連日の酷暑はまだまだ続くようで、秋立ちぬどころではない。熱中症にならないように気を付けて日常生活を過ごすことに精一杯である。

 

 第12回白圭社書法篆刻展が、愛知県美術館ギャラリーで12日まで開催されている。菱川武氏(一宮市)からご案内をいただいた。

 

 

 洋画家で一宮魚拓会会長であった宇山譲二氏(1930~2007)の、平成14年(2002)の賀状を作品として保存してあった。

 賀状は、B6サイズの用紙に、魚の絵が油彩で描かれたものである。賀状を色紙に貼り付けて、裏面にプロフィルが貼ってあった。

 22年経過し、宇山氏宅へ里帰りしたら喜んでもらえるものと考えていた。

 たまたま、親族にお会いしたので、話したら欲しいということであったので、里帰りが出来た。(岳紫のブログ4178)

 

 

宇山譲二氏プロフィル

   一宮市出身。洋画を森新市・三尾文夫に師事、名古屋大学祭展学部長賞、中部一水会展、あかね会展、やよい会展。魚拓美術を中島章に師事、昭和48年一宮魚拓会を設立し会長に就任、一宮市レクリエーション協会評議員・理事を歴任、一宮市文化功労表彰。一宮市

一宮市内への焼夷弾投下と被害

 今日8月6日は広島へ原爆が投下され、被爆から79年の原爆の日である。ノウモア広島。

 

 一宮市博物館で開催中の「企画展 戦時下の一宮」を参観して、「戦局の悪化と空襲」パネルで、戦時中の昭和19年(1944)12月17日にアメリカ空軍の戦略爆撃機B29により、一宮市萩原町西御堂へ散発的に焼夷弾が投下されたことを知った。

 一宮市内で焼夷弾が投下された一番初めのこととなるが、一宮市萩原町史(1960)に記載はない。西御堂町内会編纂委員会著の「村の歩み尾張国西御堂」(1977)に、焼失戸数6戸・死傷者は無いと記載されているという。

 名古屋大空襲が昭和19年(1944)12月13日以降くり返しあったことから、その余波であろうか。

 

 昭和20年(1945)1月7日には、北今地区に焼夷弾が投下され,7戸の焼失家屋があった。(尾西市史通史編上巻)(1998)

 

 昭和20年(1945)5月14日には、浅井町に焼夷弾が投下され、焼失家屋、死者があったと一宮市浅井町史(1967)にあり、7月12日深夜からの一宮大空襲時と併せ、死者34人、家屋の焼失519戸という大きな被害となった。町史に5月・7月の被害の内訳は無い。

 

 一宮市街地は、7月28日の2回目の一宮大空襲で大半が焦土となり、死傷者が多い大惨事であった。

 企画展に、戦争を知らない大人や子供が多く訪れ、「平和と戦争」を今一度考える機会となるよう願う。(岳紫のブログ4177)

 

 博物館西入り口看板

 

ながらスマホはNO!

 「JAFMate」2024夏号の裏表紙に、車運転中のながらスマホはダメ!とカラーで全面に掲載されている。

 当たり前のことであるが、「ながらスマホ」が無くならない状況である。車だけでなく、歩きながらのスマホ、自転車に乗りながらのスマホも多く見る。

 

 

自転車を漕ぎながらスマホをしている人

 

 また、自宅前の狭い道路の交差点で、一旦停止のある狭い道路側からスピードを上げて広い道路を横断していく自転車をよく見かける。

 いつも交通事故が起きないかと心配をしている。車は急には止まれないのである。自動車も一旦停止せずにスピード度を少しだけ落として前進することもしばしばある。

 たまたま、新聞折込に自転車と自動車の人身事故のチラシが入っていた。信号交差点で事故が多いのは、名岐バイパス交差点と西尾張中央道交差点が挙げられている。(岳紫のブログ4176)