宇和島闘牛の興奮冷めやらぬまま、宇和島攻めを続けます。

 

「宇和島市立伊達博物館」年末年始は休館です

 

 幕末の話になると絶対出てくる四賢侯、その内の一人「宇和島藩8代目藩主・伊達宗城(むねなり)」が挙がります。残る3名は「越前福井藩14代目藩主・松平春獄(慶永)」、「土佐藩15代目藩主山内豊信(容堂)」、そして「薩摩藩11代目藩主・島津斉彬」がいます。

 大河ドラマなどはどうしても薩摩や土佐越前が主役になりがちですが、ここ宇和島も十分主役級です。

 

 なぜ伊達家が宇和島を治めていたいたかというと「江戸時代には宗家が仙台藩藩主家、政宗の庶長子・秀宗の家系が宇和島藩藩主家」になったためです。詳細は他のHPにお任せしますが、宇和島は「藤堂高虎」ではなく「伊達政宗」の城下町ということになります。

 

「天赦園(てんしゃえん)」は開いていました

 

 宇和島藩第7代藩主である伊達宗紀が、隠居場所として建造した池泉廻遊式庭園です。伊達家の家紋に因み様々な種類の竹をはじめ、藤や花菖蒲などの四季折々の花が植栽されており、園内各所に落ち着きのある趣を演出しています。

 

「伊達政宗」ゆかりの命名、幕末の国事斡旋の舞台ともなった大名庭園。
七代藩主、伊達宗紀(むねただ)(春山)が隠居の場所として建造した池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)庭園。
名の由来は、「伊達政宗」が隠居後詠んだ


馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し
残躯は天の赦す所 楽しまずして是を如何せん

という漢詩から採ったもの。
書院式茶亭である潜渕館(せんえんかん)は、大正11年、昭和天皇陛下が皇太子のころ、天赦園御成の際の御座所にあてられたこともあります(うわじま観光ガイドHPより)。

 

 なるべくお城と庭園はセットで攻めたいですね。

 

池の畔に佇む息子

 

近くに行くと池の鯉たちに餌あげていました

 

新春とはいえ真冬です

 

夏には見事な藤の花を見せてくれるのでしょう(2011年5月撮影GWはちょっと早いか)

 

東屋で何を想う

 

息子の一枚、姿勢が悪いなぁ

 

書院式茶亭の潜渕館(せんえんかん)

 

「天赦園」から「宇和島城」を望む

 

 ここから「宇和島城」へ攻めますが、ちょっと寄り道。

 

「高野長英」の隠れ家

 

 「蛮社の獄」で囚われの身となった「高野長英」は牢屋敷の火災による「切り放ち」に乗じて脱獄。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも、最終的には「伊達宗城」に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、砲台適地の調査、砲台図面の作成、藩士への洋学教授、宇和島藩の兵備の洋式化等に従事しています。

 「伊達宗城」が幕末の四賢侯の一人になれてたのも「高野長英」の力があってのことでしょう。

 

 日が沈む前に「宇和島城」を目指します。