もう4月を迎えるというのに・・・。

 

伊予国の初日の出

 

 今年の城初めは伊予国「河後森城」からです。「続日本100名城」になります。

 南予も冬の朝は寒い。

 

「河後森城」の縄張りを確認し、朝駆けをします

 

 城の築城の年代は不明ですが、主に天文後期から永禄期、天正期(1500年代後半頃)にかけて機能していました。当地域は当時、伊予(現愛媛県)と土佐(現高知県)の国境地帯にあって、黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれていました。永禄期の城主としては、河原渕教忠(かわらぶちのりただ)の名が残っていますが、この城主は、土佐一条氏一門から養子として入っています。

 長宗我部氏の四国統一への動き、また天正13年(1585年)の秀吉による四国平定を経て、当地域を含む宇和郡は、戸田氏、藤堂氏、富田氏へと支配が移っていきます。特に藤堂高虎の時代には、河後森城の天守が板島城(現在の宇和島城)に移築されたという伝承が残っています。

 慶長19年(1614年)、伊達秀宗(だてひでむね)が、宇和島藩を創立すると、付家老の桑折(こおり)氏が居城したといわれ、その後詳細は不明ながら、元和元年(1615年)の一国一城令の発布によって廃城になったと考えられます(松野町HPより)。

 

「河後森城」は馬蹄型をしており、駐車場から中央の「風呂ヶ谷」へ向かいます

 

まずは風呂ヶ谷から西側の曲輪(上の写真向かって左)を目指します

 

いきなり急な坂道が行く手を阻みます

 

地元の小学生が作成された案内板、所々に掲示されています

 

息子も寒い中、果敢に攻めます

 

門が見えました

 

最初の目的地「西第十曲輪」当時の建物が復元されています

 

 「続日本100名城」のスタンプはこちらで。「御城印」は別のところで取り扱っているようです。

 某、「山城」は基本朝駆けで施設オープン前が多いので「スタンプ」が24時間のところは大変助かります。

 

地元の小学生が作成された掲示物

 

小屋の中のお馬さん、シャッキとせい

 

「西第十曲輪」の堀切

 

「本郭」を目指します

 

「西第三曲輪」と「西第二曲輪」を分ける堀切

 

「本郭」への虎口

 

「本郭」に到着

 

ここで儀式が行われているようです

 

某も倣います

 

「本郭」から松野町を一望できます

 

復元された建物があんなに遠くに

 

さらに東へ進みます

 

「東第四曲輪」と「古城第二曲輪」の間の堀切に建てれたら門

 

曲輪の上から

 

同じ曲輪から、虎口の様子がよくわかります

 

さらに進んで

 

一番東の「古城」へ到着

 

最後の「新城」へ向かいます、写真右側は帯曲輪

 

「新城」、ここから帰還します

 

広見川を挟んだ向かいにある道の駅「虹の森公園まつの」から「河後森城」を望む

 

 道の駅にあるパン屋さんで兵糧を入手して「宇和島」へコマを進めます

 

「宇和島」に向かう途中の道の駅「広見森の三角ぼうし」に鎮座する「鬼王丸(おにおうまる)」

 

 大きさはおよそ5m、雉がビビッて寝返ってるやん。

 「広見森の三角ぼうし」のある鬼北町の名物が雉肉だからしゃーない。

 

ぜひこちらの方と戦っていただきたい(山陽自動車道「吉備SA」)

 

 この鬼のお母さんが別の道の駅にいるらしい。

 道の駅「広見森の三角ぼうし」から北へ車で約20分の所にある道の駅「日吉夢産地」

 

「鬼王丸」のお母さん「柚鬼媛(ゆきひめ)」、美人すぎるやろ

 

 

こちらのHPより借用

 
 気を取り直して、「宇和島」へ駒を進めます。