開陽丸が座礁という不利な状況を打開するべく行動を開始します。

 こういう場合の有力な案として地元民の協力を仰ぐが一番です。

 

 コマシャインが箱館の東「志濃里(志苔、しのり)」で和人に対して蜂起したという情報をつかみました。これに乗じない手はありません。

 

 コマシャインの乱

 道南の歴史は古く鎌倉時代にはすでに陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である安東氏(本姓は安倍)の支配下にありました。

 安東氏は配下の武将を12の館("かん"ではなく"たて"と読みます)に配置、そして、渡島半島南部を「松前」「上之国(かみのくに、(松前以西~上ノ国)」「下之国(しものくに、松前以東~函館)」の3地域に分割し、それぞれに守護と副守護を置きました。これを「三守護体制」といいます。

 三守護体制により安東氏は道南での和人(わじん)による支配体制を強化していきましたが、それはアイヌの反発を招くことになったのです。

 こうした情勢下で、アイヌの男性(少年とも)が志濃里(志苔、しのり、函館市)の鍛冶屋にマキリ(小刀)を注文したところ、品質と価格をめぐってトラブルが勃発。結果、和人の鍛冶屋がアイヌ人男性を刺殺する事件に発展しました。

 1457(長禄元)年、渡島東部の首長コシャマインが挙兵し、アイヌの蜂起はさらに勢いを増します。コシャマイン率いるアイヌ勢は、もっとも繁栄した和人の勢力地(函館・松前地方)を標的として進軍し、安東氏の道南十二館を次々と襲撃していきました。

 志濃里館、箱館、中野館、脇本館、穏内館(おんないだて)、覃部館(およべたて)、大館(おおだて)、祢保田館(ねぼただて)、原口館、比石館(ひいしだて)の10館を渡島半島を反時計回りに攻略し、あとは茂別館(もべつたて)と花沢館を残すのみというところまで和人を追い詰めたのです。

 

 史実では花沢館の客将(かくしょう)がは敗走してきた和人たちを糾合し、1458(長禄2)年に七重浜(ななえはま、北斗市)でアイヌ勢を迎え撃つ態制を整え、いったん退却するそぶりを見せます。アイヌ勢を懐深くまで招き入れ強弓でコシャマインを射殺、総大将を失ったアイヌ勢は瓦解し、戦いは終結しています

参考HP

https://www.mapple.net/articles/bk/2256/

 

場所のおさらい

 

江差から続日本100名城に名を並べる「勝山館(かつやまたて)」へ進軍します

 

道南十二館に入りませんが立ち寄りたい「史跡上之国館跡」のうち「洲崎館(すざきたて)」

 

 コシャマインの戦いで功をあげた客将が同年築いた館と記述されています。

 「砂館神社」横?にあります。

 

土塀かな?

 

「史跡上之国館跡」のうち「花沢(はなざわたて)」

 

 この「花沢館」から「道南十二館」になります。

 

やっぱり熊が怖いので入口まで

 

 近くに「花沢温泉」があり、ゆっくりしたかったのですがそんな時間がありません。

 「勝山館」へ急行します。

 

「勝山館跡ガイダンス施設」

 

中では模型や映像で勝山館を案内しています

 

 続日本100名城スタンプ、御城印はこちらで。

 この時期、熊対策として熊鈴の貸し出しも行っていました。

 

熊対策を十分にして攻め込みます

 

いつ熊に襲われてもおかしくはない

 

ガイダンス施設は搦手側になります

 

 麓には「上ノ国八幡宮」や「旧笹浪家住宅」があり、そちら側が大手に当たります。そこから攻めることが出来ますが、この時期はお勧めできません(マジで)。

 

搦手から攻めるといきなり広がる眺め、曇天なのが残念です

 

一気に大手側へ、麓から真っすぐ攻めることができそうですが

 

堀、橋を使って虎口の体をなしています

 

両脇に堀と柵そして土塀

 

 熊に襲われない内に撤収します。

 

夷王山神社・夷王山・夷王山墳墓群を遠巻きに


 天気も怪しくなってきました。

 松前城に向けて先を急ぎます。