地球の運び屋
いく社長です

スピプロ終わって
続きを書こうとしてるのに

変容に次ぐ
変容

変容のたびに
感じる
恐怖と
その先にある喜び

毎日
ヘトヘトというか
エキサイティングというか

これが
次元上昇って
ものなんでしょうか?

いちなる世界を感じるって
もっと穏やかな
世界を想像してたんですけど

わたし
ドラマティックが好きだから
やっぱり一度は
ザワザワして
大騒ぎしないと
気がすまないのね

わははは

てなわけで
続きが書けないまま
水曜日が終わるの

あれもこれも
やらなければ!
と思えば思うほどに
進まなくて

もうどうにでもなれと
解放すると
進み始める

読んでてお気付きの方も
いらっしゃると思うんですが

それ
方向間違ってない?

って思いません?

物事に対しての
初動が
おおむね
反対方向へ
しばらく行ってから
間違ったことに気付いて
戻る
という
プロセスをとってるの

それって
そのカタチはしてるけど
実は求めるものとは違う
ものを買ってしまったり
食べてしまった感覚と似てる

例えば
美味しい焼き鳥を食べたいのに
焼き鳥のカタチはしてるけど
焼き鳥のアジがしない焼き鳥を
食べてしまった時
(最近こういうたべものが世の中に多い)

靴のカタチはしてるけど
履けば履くほど
足が痛くなる
靴のカタチをしてるだけの
なにか
(靴は自分の足にあってこそ、目的地にまで快適に連れて行ってくれる)

これをやればなんとかなる!
わたしが思ってることは

もしや
やればやるほど
なんとかならなくなるものなんじゃ
なかろうか…

そして
こんなことして
なんになるのか…
こんなことして
大丈夫か…?
しかし
思いついてしまった上に
もうやりたくて仕方がない…

と思うことが
本当はなんとかなることなんじゃ
なかろうか…

世界は愛に溢れてて
この世はこの愛を
どれだけ自分に許可できるかの
ゲームのようなもの

豊かさも
パートナーシップも
知恵も

それを
自分に
許可できるか?
という
プロセスをふめば
ふわりと現れる

いま、わたしのリアリティに
想像を超えた世界が
じゃんじゃん現れ始めて
ちょっとビビったりしてる

でも
奥底から聞こえる声は
「ただ愛されてほしい」
それだけなんだ

許可をする
受け入れる
愛される

自分にそれを
ただゆるすこと

サレンダーすること


わたしの
地球の運び屋活動
地球のチャクラをまわること

そして
神社の遠隔参拝会員募集
整体施術のモニター募集

どれも始めるとなると
ちょっとしたこわさを感じる

誰も必要としてないんじゃないか?
誰も来ないんじゃないか?

そして
しまいには
路頭に迷うんじゃないか…

それって
わたしに対して
非常に失礼な物言いだし
信頼のかけらもない言葉

失礼なのよ!!

わたしは
わたしよ!!
(中森明菜でお願いします)

そうだ

わたし(地球在住)
「わたし」(意識在住)

だんだんクリアになってくる
その関係性に
たしかにこわさも感じるね

なぜなら展開が早過ぎて
ついていけないような
気持ちになるから

でも
いつでも
人生はわたしだけのもの
パーソナルカスタマイズされている

そして
すべての
パーツを選び抜いて
ここにいる
ここに
ある

その感覚からみたら

わたしが
これからやろうとしてることは

わくわくの塊だ!

わたしは
わたしを
精一杯生きる

わたしの今が
映画なら
ドラマならば
小説だったなら

きっと
みている人は
ドキドキして
先の展開が気になるはずだ

地球の運び屋という
生き方

地球を100%楽しみたい
カラダと心のために
という
コンセプト

わたしがわたしの味方になろう

いま、胸にある
こわさもおそれも
先の見えない不安も

それは
ジェットコースターに乗る前の
ドキドキの
活用形みたいなもんだ

石は投げれば転がる
転がった先の景色がある
わたしに告げたのは
約20年前に出会った
メールフレンド
懐かしいな
いま、どこにいるの?

今日
わたしは
石を投げてみようと思う

すべての言い訳
自分を守るための
言い訳という
柔らかなおくるみから
這い出して

むき出しで
地球を生きる

それは
すべてを受け取るという
決断だ

そして
むき出しの世界は
言い訳という
一見
柔らかにみえる
おくるみの中よりも
あたたかくて
満ち満ちて
ふわふわな
しあわせな世界だと
知るのだろう