桜満開の盛岡よりいく社長です。

 

「安心」して「楽しむ」にフォーカスして

人生を楽しんでおりますが

人の中にいますとそれもなかなかままならないこともあります。

 

私の場合、それは

「人からどう思われるだろう?」という

恐怖や心配から起こることが多いです。

 

毎日エイブラハムのDVDを見ていますとですね。

 

↓コレですよ、コレ

 

 

 

そんな事態になった時に

頭の中で「うちのエイブラハムさん」が話だすようになりました。

 

それは

ボルテックスの中ですか?

外ですか?

 

わたしにとって

恐怖や心配というのは外です。

中にいたら何の心配もないというのに

わざわざ外にいってそれを体感したいというのは

もう肝試しか!とツッコミたくなります。

 

一日に何回も繰り返しています。

あわわもやもやとなったら

ここはボルテックスの中ですか?外ですか?

 

とりあえずは現在位置の確認から始めています。

 

自分の位置がわかれば

どこへ行きたいかを思い出すだけ。

ボルテックスの中へ戻るのです。

 

私にとっててっとりばやいのはトイレかな。

 

待たずに入れた!とか

健康(正常)な排泄物だった!とか

自分ひとりでできた!とか

きれいなトイレでラッキーだ!とか

手を洗う場所に石鹸があってうれしい!とか

あとは

手を洗うという行為にうっとりしたり

(なんだかわかりませんがきれいな水にうっとりします)

乾いた布で手を拭くとさらにうっとりしたり・・・

 

ボルテックスの中へ戻る

自分の心地よい空間を作りやすくなります。

個室ってこともあるかもね。

ひとりの時間があると戻りやすいのかもしれないです。

 

まだ人の中にいるときは

「安心」を保てなかったりしますけど

トイレに入っているときみたいに

小さなことに安心するようにすることが大切なのかなって思います。

 

たとえば

目が見える

耳が聞こえる

今日も健康だ

まわりの人とコミュニケーションがとれる

(挨拶とかね)

ここちよい風を感じる

飲みたいときに水を飲める(←これ私にとってとても重要)

 

よっく考えれば

人からどう思われてるかなって思った時も

どう思われてても私の人生は大丈夫だし

そもそも私が想像しているようには思われていないのです。

 

ときたま出てくるうちのエイブラハムさんが

「あなたたちは心配しすぎです」

と教えてくれます。

 

そうだ。

私は心配しすぎなのです。

 

常に自分の世界を自分が創り出している事は自覚しています。

だから、起こる出来事も自分が創り出したと納得できています。

でも、それを知っていても

自分ってどうしたいんだろうな?ってわかんない時もあるのです。

今日のランチになにが食べたいか?がわからない、みたいな気持ちになる日があるのです。

そんなときに起こることは、コントラスト、私に行先をしめす矢印。

ランチはラーメン食べに行こうといわれて、あ、ラーメンよりはパスタだな、と感じるように・・・。

 

恐怖や心配を感じるときは

戻れという合図でしかないのか~。

 

これまったく同じことを前にも書いてる気がします・・・。

 

「今」安心するために私はなにを選択する?

「今」楽しくなるために私はなにを選択する?

 

愛と感謝を選択し続ける私でありたいな。

 

もう・・・

私生きてるな、ありがとうまじかるクラウン

私生きてるな、あいしてるまじかるクラウン

これに立ち戻ってやってみよう乙女のトキメキ

 

ボルテックスの外にいると・・・

ボルテックスの中にいると体験できない事もたくさん起きる。

実はそれも楽しみたくて、中にいると実は退屈で

出てきちゃうのかもしれないね。

あとはなんか役目があって出てきたとかね。

 

そもそも中も外もないんじゃないの?論になってきそうになったところでおしまいにしようっと。

 

「安心」と「楽しさ」の中で遊ぼうおすましペガサス