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9月12日(木)
正式な名前は、城中焼亡埋骨墳(じょうちゅうしょうぼうまいこつふん)
お城の南側、大通りに面する林の一角にひっそりと建っている
道路と結ぶ道はない。それでも、何回かお参りしている人の姿を見かけた
知る人ぞ知るとはいえ、地域に根付いた碑なのだろう
 
建立は、1868年7月。慶応4年であり、明治元年でもある年だ
その年の1月、大阪城は旧幕府から明治維新後の新政府に引き渡された
ただ、それに納得しない旧幕府の家臣が城に火を放ち、自ら命を絶った
その潔さに敬意を抱いた薩摩と長州が共同で建て、
亡くなった人の遺骨や霊を祭ったのだそうだ
碑の裏側には、建立者として薩摩、長州両藩の名が刻まれている
小なりとはいえ、薩長連合だ
 
時が過ぎ、やがて人々はこの日を「残念像」「残念さん」と呼び、
様々な願いをかなえてくれる神様として信仰しているという
碑の持つ物語には日本人の心情に響くものがあるからだろう
 
少しバテ気味だが、頑張って10.57km